第7話 一日の終わり、旅の始まり
ヒイロが目覚めて五十時間は経った頃。イワツチではようやく落ち着きを取り戻し、人間や烏天狗はヒノクニへ戻る手筈が済んだ、はずだった。
もう少しでイワツチに別の宇宙船が到着する。それはヒノクニには向かわず、また太陽の方向へ、惑星カナヤマへと向かうのだ。
『これから乗る宇宙船にも治療室がありますから、痛みがあればすぐ言って下さいね!』
『分かった』
ヒイロは素直に頷いた。意識を取り戻して以降、刺された痛みはもう無いものの、度々頭に痛みが走るようになったからだ。頭痛など烏天狗にはあまり見られず、それが日に何度か、一瞬だけ起こる。
『お医者様も、もう一人追加で来られるそうで……あともう少しのはずです!もう少しでイワツチの一日が終わります、そうしたら分厚い雲が出来て、大雨が降って、宇宙船が飛びにくくなりますから』
『一日……ここではまだ一日経ってないのか』
『そうですね。……雲が集まってきましたから、あれがもっと分厚くなって、そうすればイワツチは雨の時間になります!それがオオガマの皆さんの夜だそうです』
ヒイロは空を見上げ、イワツチの雲の上、もう宇宙船がそこまで来ている大きな音、澄まさなくとも聞こえるそれに耳を委ねる。別室では国長達が、別れの挨拶を済ませている声が聞こえた。
ヒイロは起きてから、イワツチの新しい形についてクスノキから聞いていた。それは勿論烏天狗に理解出来る内容ではなかったものの、神を殺したヒイロにとって悪い方向ではなかった。しかし。
(……神、なんて、どれだけ重い存在なんだ……)
明らかにオオガマの音が変わった事は、ヒイロにとって知らない頭痛より苦しい環境を作っていた。最後の挨拶も、ヒイロは頭痛を理由に逃げていたのだ。
(……早く帰りたいのに、どうしてまた別の惑星に行くんだ。しかもまた、神の子がどうとか……)
カナヤマに行く事が決まったのは、イワツチの神の話が終わり、ヒイロの意識もはっきりしてきた頃だ。どうやらカナヤマの長が神の子に興味を示したらしく、国長や星長達も困惑しているようだったが、カナヤマの神の話に近いものらしい。ヒノクニには断る理由が無く、イワツチとの交流も危ういヤマクイにとっても断り辛いのだろう。さらには別の惑星の名前まで上がっており、星長、国長すらも何か興奮した様子に、ヒイロはクスノキの声を頼りに、その辺りの話を意識的に聞こうとしなかった。
『……カナヤマの神は、どういうものなんだ?』
『カナヤマの神様はカスガの神というんですけれど、ええと……他惑星とは、信仰の形がちょっと、大きく違っていまして……』
クスノキはどう説明しようか、窓を見ながら考えていたのだが。ふとヒイロの方を見て、『あの、』と声を零す。
『……ヒイロ様は、大丈夫なんですか?本当に』
これから向かう惑星について聞く烏天狗に、心配そうな音を鳴らした。
少年烏がこの惑星でどれだけ大変だっただろうか、その場にいなかったクスノキにも想像が難しい話ではない。その上別惑星に、もしかしたらもう一つ、向かうと言うのだ。少年烏はその話を聞いた時、数十秒だけは何も言わなかっただろうか、それから「分かった」と一言呟くように答えるだけだった。
『僕達ヒノクニにとっては、他惑星、神様のお話を見過ごす事は出来ません。……でも、ヒイロ様に向かっていただくというのは、……せめて一度休まれてから、』
『……別に、いつも通りだから構わない』
むしろ今、クスノキが鳴らす音の方が、ヒイロにとっては不思議な感覚だった。
『大使もいるんだ、クスノキこそ、一度帰った方が良いんじゃないのか』
『父様が一度ヒノクニに戻られるそうなので、国長代理として出向く必要があるんです。それに、僕はヒイロ様の通訳ですし。カナヤマでもワタツミでも頼っていただいて大丈夫ですよ!』
嬉しそうに上がる語尾に、ヒイロはどこに居心地を置いていいものか、羽を揺らした。
「……嫌じゃないのか」
『え?』
クスノキが聞き返そうとした矢先、ゴオオォ、と、人間やオオガマ達にも届く音が空からその声を遮る。雲を切り分け姿を見せたのは、遠目で違いが分かる程大きな白い宇宙船。今ヒイロ達が乗っている宇宙船を縦横四つは並べる程の大きさがあり、その姿を爪先から頭まで全て見せると、斜めだった体を雲と平行に、空を泳ぎ、強い風を吐き出しながら空中で停止する。
『……、ヒイロ様、クスノキ様。宇宙船が到着しました。上空に移動しますので、手摺りや棚にお掴まりください』
『あっ、はい!』
スピーカーの声にクスノキは反射的に勢い良く返事をし、合図のように宇宙船が唸りを上げる。ヒノクニで一番大型の宇宙船は着陸出来る場所が無いからと、空中で結合、移動する流れになっていた。
国長、星長、大使一人はヒノクニへ、医者数人はイワツチに残り、ヒイロ、クスノキ、モクレンと医者一人、それから責任を感じているのか、どうしてもと治療を終えたミズキが、新しく来る宇宙船に乗ってカナヤマへと向かう。
残り破壊音に似た騒音と振動、その隙間から、オオガマ達の声が聞こえる。何を言っているのかは分からないが、この惑星に着いた時のような高鳴りは無かった。
景色が流れ出し、泥もオオガマも、木々も下へと残したまま、宇宙船は雲の下まで駆け上がる。飛行中の宇宙船二つは大掛かりな騒音となり、ヒイロはどこかへと耳を向けた、と、目をはっと開いて、これから乗る宇宙船へ首を捻った。
『どうされました?』
『……、宇宙船に乗って来るのは、人間だけじゃなかったのか?』
『え?……ああいえ、確か途中に追加で……、』
けたたましい警告音が鳴り響き、二つの宇宙船を繋ぐ扉が開かれた。
宇宙船では操縦士の一人が四人と一羽を出迎える。前より広くなった小部屋で一度調整に待機すれば、次の扉の先はもう大型宇宙船の長い廊下だ。一番手前の扉が操作室だと告げる。その横は全員で集まる場合に使う大部屋だと、隣は人間用の寝室、中には個室が付いている、その反対の部屋が烏天狗用だと言う。医療室、すでに医者が待機しているようで、共にいた医者もそちらに合流した。穀土庫兼台所、備品室、変わった扉が一つ。他に比べ人一人分はある分厚さの枠に囲まれ、小さな画面とスイッチが四つ、厳重に佇んでいる。
イワツチからカナヤマへ、そこからヒノクニまで戻るのであれば、かなりの時間が掛かる。長い間過ごすのであればと、操縦士は一つ一つ丁寧に説明した。
『ここは宇宙飛行中でも重力がある状態で過ごす事の出来る重力室になります。連日の無重力は体に支障をきたしますので、定期的に重力を感じるよう作られた部屋です。多数用途がありますが、烏天狗の方々にも気に入って頂けるかと』
後で来ましょうね!と嬉しそうなクスノキが後程説明すると言い、操縦士は全員を引き連れ廊下の始めへ、集合部屋まで戻った。
『このスイッチを三秒押し続けていただければ、扉開閉の警告音が鳴ります。そのまま押し続けていただくと五秒後に扉が開きますので』、警告音が鳴り、五秒後扉が開けば、中で待っていた大使一人は頭を下げた。
『お待ちしておりました』
ミズキ達の知っている顔なのだろう、しかし三人と一羽が目を向けたのは、大使の奥にいた少年だ。
『ヤマクイより同行させていただきました、アオイです』
黒い羽毛に包まれた体を翼で浮かす種は烏天狗に他ならず、ヒイロより少し長い黒髪が彼の金の目を、酸素ボンベが顔を、半分ずつ隠している。アオイは無重力に耳飾りを揺らしてモクレンやクスノキ達に頭を下げると、機械に包まれた手と握手を交わした。
『初めまして、クスノキです。国長でなくて申し訳ないですけれど、今回の訪問は僕が国長代理で同行させていただきます』
『こちらこそ、星長が同行出来ず申し訳ありません。危険な惑星と聞いていましたので、万が一の為にと私が』
搭乗した者の確認が取れれば、やがて天井のスピーカーから機械音が一つ鳴る。『宇宙船分離が完了しました。間も無くイワツチを出発します。手摺りにお掴まりください』、そう伝えられると、皆散り散りに浮いた体を手摺りや棚、机へと寄せ合う。窓の外が一気に白く染まり、激しい振動と共に体の感覚だけを下へと叩きつける。
振動が静かになる頃には、空はもう暗く、宇宙の始まりを見せ、人間と烏天狗は長い一日を経たイワツチを後にした。
『ここはですね!宇宙船が向きを変えても影響されないんです!宇宙船の中でこの部屋だけ浮いている状態……とかで、ここでは宇宙服を脱いだり、ヒイロ様もボンベを外して過ごす事が出来るんです!僕も初めて入りましたけど』
重力室、と説明された部屋の真ん中で、クスノキは身軽になった両手を大きく掲げて立っていた。ヒノクニの時と同じ格好のクスノキの肩掛けは重力に従って揺れる。
白い壁には手摺りが這い、固定された円柱の棚が四つに机と椅子が二つ、どれも隅に置かれており、奥の壁際にはベットが十並んでいる。宇宙船の中でも随一に広い部屋の中心は何もない大きな空間になっていた。他の部屋と大きく違うのは窓が無いだけで、代わりの飾りのようにクスノキの脱いだ宇宙服とヒイロのボンベが壁に掛けられている。
「……」
ヒイロは悩んだ。この部屋に気に入る要素があるのかと。
『無重力では出来ない事が出来ます!例えば、』
嬉しそうに胸を張るクスノキが口を開いた瞬間、扉から警告音が、大きくはないが耳に来る高い音が扉向こうでも鳴っている。重力が変動しないよう、無重力の廊下と部屋の間に一つ小部屋があるのだ。数分経って今度はヒイロ達の目の前の扉が音を鳴らす。
爪を鳴らして入って来たのはアオイだった。
『あっ、アオイ様。丁度良かったです!』
『私もヒイロに用がありまして』
アオイは手に持つ横に長い鞄を上げ、軽く笑った顔をクスノキに返すが、扉近くにいたヒイロを見る瞳は細かった。ヒイロも嫌そうに呟く。
「……何でアオイが来てるんだ」
「お前がイワツチで倒れたからだ。特に次の惑星は危険が多いらしいから、念の為カナヤマでは私が同行するよう、父様に言われた」
「ヤマクイはいいのか」
「マツバが帰っている。あいつは指揮は出来ないが腕は立つからな。前から組んでいた隊式を変えて見回り時間に隙間が無いよう回している。お前に心配されるものは無い」
「……私もお前達に心配されるものは無い」
『……』
はっと二羽が部屋の中心に顔を向ければ、ほうと口を開けたまま自分達を見ているクスノキが、首を捻った。罰が悪そうに顔を濁したアオイは鞄をヒイロへと差し出す。
「?」
「父様から、長旅になっているから必要な物を持って来るよう言われたんだ」
『!、それヤマクイの物ですか?』
クスノキは興味あり気に二羽に近寄ると、鞄、ヒノクニから借りたものだろう、白く少年達の半分以上はある長さの鞄を覗き込む。
受け取ったヒイロは鞄の開け方を聞こうと顔を上げた瞬間、鋭く刺した頭の痛みに顔を歪ませた。一瞬の痛みは視界まで歪むようで、ヒイロはアオイがまるでヤマクイに、白い壁が鉛色にまで見えたような、鞄が開いていた気さえした。
その中身まで見えたほどだ。
頭を押さえかけた手をすぐに下げると、箱に手を置く。
「……予備の刀と、研石……」
「そうだが。他惑星には無いと言われたからな」
「……笛は要らなくないか」
「何があるか分からないだろ、……?」
アオイは訝し気にヒイロを見たが、二羽の視線は交わされない。クスノキが説明し、床に倒した鞄を開ける。中は刀の予備が二本、腕の太さはある研石が二つ、鉄蟻が出た時に遠くに知らせる円柱の鉱石で出来た笛が一つ、烏天狗がたまに齧る鉄を含んだ黒い鉱石屑を羽に包んだ物が一つ。
『わあー……!やっぱりヤマクイの刀って綺麗ですね!これで削るんですか?』
『そうです。定期的に研がないと切れ味が落ちますから。……ヒノクニでは使わないのですか?』
『ううん……使うかもしれませんけど、僕は見た事ないですね。ヒノクニにも一応刀や矢はあるんですけど……害獣はあんまり見ないですし、何か悪さをする人に対抗する為にしか使われないので、刀自体滅多に目にしないんです』
『平和なのは良い事ですよ』
クスノキはぱっと笑った。
『そうですね!……あっ平和とか、そうじゃないとかではないんですけど……カナヤマは、ヒノクニが行ける惑星の中で一番武器が多い惑星なんです!後で皆で集まって説明されますけど、烏天狗の方にも何か良い物があるんじゃないかと思ってて』
へえ、とアオイは興味深げに返す。次期長同士、話が合うのだろうかと、ヒイロは居心地の悪さに腰を上げた。声を上げたのはクスノキだった。
『そうだ、お話が途中でした!』
クスノキも勢いよく立ち上がり、部屋の中心へ大手を上げる。
『ここなら重力があるので、ヤマクイでの雲の下と同じ条件になります!星長様から、烏天狗の方はテツギを倒す為に稽古するって聞いたので、ここなら出来るんじゃないかなって思って!』
ヒイロとアオイは、なるほど、と目を丸くした。惑星にいた頃と比べれば長らく稽古をしていないと、ヒイロは自分の刀に目を下ろす。
『試してもいいのか?』
『大使様達には許可を頂いていますので!家具がある場所と扉近くでなければ大丈夫だと!あの僕、隅の方で見ていてもいいですか?』
ヒイロは頷く。クスノキがベットまで下がるのを追いかけるように部屋の中心に向か合えば、後ろで刀が羽に触れる音がした。ヒイロが振り返ると、アオイが先に刀を抜き、ヒイロへと向けている。
稽古は基本二羽かそれ以上でするものが多い。とはいえヒイロは避けられていた為、一羽でする事の方が多かった。アオイが刀を向けている、二羽稽古する合図に、ヒイロは訝し気に耳を澄ました。
(……いつも通り。怒っている。何なんだ……)
だが断る理由も無く、ヒイロは表情を変えないまま自分も刀を抜き、アオイへ向けた。二羽は一度翼を舞わせて浮き上がる。数秒切先が向き合えば、開始などいつでも良い。
アオイの翼が先に大きく羽ばたいた。二羽の距離は人間の少年が瞬く間に縮まると、刀のぶつかる鋭く重たい音が響く。
烏天狗の浮いた体は一撃弾くごとに後ろへと流れ、それを阻止するよう何度も翼が羽ばたき、刀を振りやすい場所に体を押し留めている。ヒイロはその場所を少し変えた。僅かだが翼を強く降り、掌一つ分ほど前に下り立たせた場所から小さく速い振りでアオイの刀身を狙う。
「!、ッ……」
アオイは弾く事こそ出来なかったものの、振り切れていない刀身で受けたヒイロの刀に押し負ける一歩手前、左手で刀身を押さえ数秒の鍔迫り合いに舌を鳴らす。ぢり、と耳障りな刃の音がクスノキに届くより前に、少年烏達は同時に刀を振り切り後ろへと飛んだ。
アオイは一度床を蹴ると、もう一度ヒイロの目の前まで一目散に翔けた。翼が大きく開く。
「……」
ヒイロは刀身を上へと傾けた。アオイが振り下ろした刀とぶつかれば、アオイの体は翼が舞わせるがままヒイロの頭上へ、体を捻りながら刀を振る、その視線の先。
「!」
彼の目に映ったのはヒイロの翼や、頭上では無い。自分を見る金色の目。烏達の視線が交わう。
ヒイロの体は弾いた流れのまま、姿勢を低くしながら半回転し、踊り合わせたように宙を舞うアオイと向かい合い、床を蹴って彼より高く飛び上がった。急ぎ振られたアオイの刀がヒイロの足を掠めることもなく、ヒイロの刀はアオイの懐に、首から胸をかけて切るように流れる手前で静止した。
『……凄い……!』
クスノキは思わず拳を握る。ヒイロが刀を下ろすと、アオイはゆっくりと体を宙から床へ、爪を鳴らせば、何も言わずに顔を落とした。
「……。アオイ、」
「……お前、最後は分かって弾いたのか?」
アオイは床を向いたまま、小さく、淡々とした声を零す。ヒイロは頷いた。
「……浮かせるよう翼が下向きに大きく開きすぎてたし、目も私を見ているようで後ろ全体を見ていた。動きが分かりやすすぎる」
稽古終わり、こうして互いの動きを伝え合う声が毎日どこからもヒイロの耳に届いていた。少し嬉しい気もしたヒイロは、わざと自分の振りが届きやすいようアオイを飛ばす威力を調整していたのだが、それは伝えていいものか、迷っていた末、アオイが返事をせずヒイロの脇を通り過ぎた。
開いたままの鞄に見向きもせず、先ほど大使から教わっていた通りに扉のスイッチをいくつか押し、警告音を鳴らして重力室を出て行った。
「……」
前髪に隠された目が語らずとも、ゆっくりと、段々と早まる鼓動と抑えた息が、神の子の表情も暗くした。
『……?ヒイロ様』
警告音の二つ目が鳴る。クスノキはヒイロへ近寄ると、申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
『あの……、すみません』
『……別に、クスノキが謝る事は無い』
『いえ、その、……、……もしかして、仲、悪かったのかなって……』
『……。……悪いが』
やっぱり悪いんだ……。少年はそう呟いて、また頭を項垂れる。ヒイロはバツが悪そうに顔を逸らした。
『……元からだし、あいつらは大体あんな態度だ。気にしなくていい』
ヒイロは首を振り、刀を腰紐に戻した。自分も扉の前まで歩くと、開いたままの鞄を閉じて、部屋の隅に持っていく。微かに部屋が揺れた。部屋の外、宇宙船は次の惑星に向けてあらゆる角度で飛んでいるのだろう。
翼を少し丸めると、小さくなった少年烏は壁に身を寄せ座り込んだ。クスノキはその様子を窺い、どうしようかと、宇宙服や扉や机達に助けを求めるでもするように、何度も目を配る。
「……」
『……』
『……すまない、大使達のところに行くでも、好きにして構わないから』
『!……じゃあ、あの、……稽古の、』
『?』
『さっきの稽古凄かったなあって話、してもいいですか……?』
ヒイロは呆気に取られたものの、小さく口を開いたまま頷く。クスノキは顔を明るくしてヒイロの傍へ、自分も壁に寄り添って座り込んだ。
『ヒノクニでは一度だけ見た事あったんです、稽古。でも全然違って……!本物の刀を使っているのもあるんですけど、全部が速くて、力強くて、それにヒイロ様達飛んでるから!全部全部見た事ないものみたいで、凄かったです!最後の……翼を開いてたとか、刀を振りながら、そんなところまで見て戦うんですか?』
身振り手振りで興奮を露わにするクスノキは目を丸くしていた。相変わらずの真っすぐな声と鼓動に、ヒイロは薄く笑う。
『じゃないと稽古にならないだろ』
『ええ、僕お二人の動きを追うので精一杯でしたよ!翼も刀も動きが速いし、いつの間にかアオイ様飛んでたし……でも、ヒイロ様お強いんですね!星長様も仰っていました!ヒイロ様がヤマクイで一番強いって!』
「……」
ヒイロは口を噤む。
『あ、え、……すっ、すいません!』
『……謝らなくていい。違う、一番強いとか、そうじゃないから、でも皆そう言うから、嫌なだけだ』
『じゃあやっぱりすいません……』
少年の下げられた頭が横目で見える。その後交わされた視線は至極申し訳なさそうに沈んでいた。
『……私一羽が多く倒した所で、意味が無いんだ。鉄蟻はヤマクイのどこにでも出るし、私だけじゃ追い付かない。私が追い付いても、数が多ければ倒しきれない。烏が沢山いても、……私じゃあ指揮が執れない。そういうのは、アオイが上手いんだ』
『……!マツバ様から聞きました!あっ、さっきタイシキとか、見回りとか言われてましたもんね、次期長で指揮まで執られるって……凄いお方なんですね!』
ヒイロは頷いて、それから項垂れた。
「……だから、私はいらなんだよ」
少年は何度も目を瞬かせた。黒い翼に隠れる黒い頭が項垂れている、真黒な姿は、何度も瞬かないと真白い部屋ではあまりに異様で眩しく見え、ブラックホールでも覗き込んでいるような感覚に思えたのだろう。
宇宙船が揺れている、僅かな感覚だけが時折少年達を撫でて包む。烏天狗には嫌な感覚だというように、ヒイロは目を細めていた。クスノキは言葉を探す。
「……いらなく、ないですよ。強い人がいる事は良い事だし、それにヒイロ様がいなくなったら、他に神の子なんていないんです」
「疎まれる神の子ならいらないだろ」
クスノキは思わず、体ごとヒイロの方へと向き直る。
「ヒイロ様……他の烏天狗の事……、お嫌いですか?」
はっと、笑い声が一つ。
「……嫌いだ」
自分で聞いた事ながら、クスノキは目を丸くした。直前の烏天狗達の不仲を目の当たりにしていなければ、冗談とも思えただろう。それでもまだクスノキがその気持ちを残していたのは、目の前で小さくなっている神の子が、何よりその嫌いだという者達の為に戦い、何一つ拒まずにこの場にいるからだ。
「では、なぜ」
聞いていいものか考えるより先に、クスノキはそう零した。あまりに大雑把な問いだというのに、ヒイロは分かっているようにクスノキの聞きたい答えを述べる。
「アオイも、星長も、マツバも、他の烏天狗も皆嫌いだ。だけど、……誰かが喰われる音や悲鳴は、もっと嫌いだ」
クスノキはハッとして、きちんとヒイロを見直す。小さく丸くなる姿は、まるで何も聞こえないよう蹲っているようにも見えた。それが彼の耳に砂粒ほどの意味も与えない事は、少年には分からない。
「遠くで誰かが喰われている音なんか聞きたくない。……ヒノクニに来たのもヤマクイの先の為で、これから向かう惑星もそうなんだろう。数日で分かった。ヤマクイには無いものが多いんだ。もし、このまま他惑星との交流が続いて、ヤマクイも色々得られるなら……、ならきっと、烏天狗全員が飢えたり、鉄蟻に襲われない先が来るんだと、そう思う。そうしたら……、」
ヒイロは言葉を詰まらせた。
(そうしたら、どうしたらいいんだ?)
どくん、と心の臓が一段と高く響いた。
「そうしたら!ヒノクニに来ませんか!」
「?!」
一段と大きくなった声に顔を上げたヒイロは、目と鼻の先に迫っていたクスノキの顔に驚いて目を丸くした。
「ヤマクイが安全に過ごせるようになれば、ヒイロ様も安心します!全部が終わったら、ヒノクニに来ませんか!ヒノクニには普段害獣がいません!病気……病気とかはあるけど、神様に祈れば大丈夫です!ヒノクニも岩石が多いので、ヤマクイみたいに過ごせるはずです!苔も沢山作って、今みたいに宇宙を飛んだり、稽古したくなったら、僕も頑張って覚えます!ね!」
羽毛一つも無い小さな少年の圧に押された少年烏は、体を引き気味に、今までならそろそろ少年が謝る頃だが、今は一向にそんな気配が無い。空を見上げた時のように輝いた土色の目を向けたままだ。
「……、……ね、って」
「はい!」
ヒイロはまた少し俯いた。そして口を覆う。
「……ねってなんだ……」
はっと噴き出して笑う少年烏に、クスノキは口を呆けさせ、それから嬉しそうに笑い返した。帰ったら惑星移住と手続きの案を考えます!と息巻くクスノキに、ヒイロはまた笑う。
宇宙船の遥か先の、また別の宇宙船。
ヒノクニに向かうこの船は普段より早く、何かを急くように宇宙空間を切って進む。それは、今はただ一人の為にだ。
大使、操縦士達は別室で仕事や待機を、イワツチ、そしてワタツミとの連絡を終えた国長は、少しだけ一人の時間を得た。ヒノクニにいる神職や大使から資料を送ってもらい、幾何もすれば。神の子から宇宙を挟んで離れた今、彼の惑星の長へと向き直っていた。
カナヤマは交流に興味が無く、神の子が見られればそれでいいと告げた。本来ならば神の子が一羽、というより星長から神の子が離れる事はないが、話すのみの会合、早ければ数日程度で追いつくだろうという事、そしてイワツチでの事があった以上、急ぎヒノクニとの交流を深めなければならない長としての気から、二手に分かれる事を選んだ星長は一羽、羽を揺らす。
『国長殿。惑星についての、話とは?』
人間の長は、両手を組んだ。それは彼らが、彼らの神に祈る形だ。
『……星長殿、我らが神を信じる気はありませんか』
国長の問いは、烏天狗にとってすぐに返事が出来るようなものではなかった。知っていて尚、国長は言葉を続ける。
『ヒノクニにとって、神とは在るべきものです。ヤマクイに神がいない事は、数百年交流を続けた私達にとっても、理解が難しい。しかしそれは、互いに同じ思いでしょう』
『……ええ。二つの惑星、神の形を見てなお、我々には、……あれほどまで信じられる存在は、何一つ知りません』
『やはり。では、星長殿。神を信じてほしいとは言いません』
『我が惑星を、ヒノクニを信じていただけませんか』
次の惑星と新しい形に向けて宇宙船は大きく傾き、重力室も合わせて小さく動いた。
少年達は知らないままだ。
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