6 氷花は風雨に曝されてなお輝く
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翌日の昼過ぎ。玲芽は休日にしては珍しく外を出歩いていた。
「……うわー」
短くなった髪に触れながら、あまりの違和感にそう呟いてしまう。
──昨日はあれから大騒ぎであった。
玲芽の古傷の痕が殆どなくなった件だ。玲芽本人も驚愕していたが、周囲もかなり驚いていた。
傷痕は殆ど消えたというのに、左の瞳は黒いままであるという事も、驚愕に拍車をかけていた。
魔術的要因でついた傷が中々癒えないという事象はままあるらしいが、玲芽に黒い傷をつけた実母に魔術の素養はない。だがその痕からは魔術の痕跡が見つかっており、MAOに所属する医師も首を傾げる程だった。
魔術の痕跡がある傷痕が消える理由としては、魔術をかけた本人が死に至るか、その傷をつけた時に持っていた怨念を忘却する事が仮説として挙げられている。確証のある理論ではないし、傷をつけた者が死んで初めて浮かぶ傷痕もあるという。
玲芽についていた傷痕は、彼自身の魔力を実母が本人も知らぬ内に使用してつけられた物だと考えられていた。他者の魔力を使って魔術を使用するという技法自体は確立されており、それは血縁関係にある者や長年交友関係を続けた者同士が起こせる。
以上の事柄から考えて編み出された結論は、玲芽本人が過去の出来事に精神的な区切りをつけたため、痕が消えていったというものだ。飽くまで仮説を重ねた物であるが。
そこまで結璃や他の有識者の言葉を聞いて、甘音が出した言葉は──「とにかく玲芽くんは髪を切って」という理論とは全然関係のないものであった。
その提案に勇武も未梨も賛成だったらしく、議論そっちのけでどの程度切るかの話し合いが始まった。
玲芽本人の意向により短過ぎる程にはならなかったが、それでも眉が隠れる程度の前髪の長さは玲芽にとって未知の世界であった。一日やそこらで慣れるわけでもない。
「ここだ……」
いつも登下校に使っている堤防の、少し先まで行ったところ。別段いつもの道と変わった物のないその場所が、玲芽の目的地だった。
蒼いロングカーディガンをたなびかせながら硬い階段を降り、河川敷まで降りる。すぐ傍にある高架下に、懐かしさと悲しみが地下水の如く滲み出る。
この場所に幼かった玲芽は棄てられ、楠瀬未梨と立華甘音という二人の少女に出逢った。彼の運命はそこで大きく変わり、今半人前の魔術士として修練に明け暮れている。
(来ようと思えばいつだって来られた。なのにこの風景を見ようとしなかったのは、思い出したくなかったからだろうか──?)
微かに頬を撫でる風を浴びながら、玲芽は線路が走る橋の影に入る。
未梨の事を思い出した今ならば、この場所に立とうと憎悪や怨念が玲芽の心を支配する事はない。
──もしも彼女の事を思い出すより先にここに来ていたら、自分の感情はどうなっていたのだろう。悔しさに心を燃やすのだろうか。悲しさに目を熱くするのだろうか。
それとも、全てを思い出して踏ん切りをつけられただろうか。
いずれにせよ、もう過ぎた話。過去を変える手段などあるはずもなく、玲芽が抱けるのは今その胸に湧き立ったものだけ。
(あの時、魔核狩りの女は俺を殺す依頼があったと言っていた。だが俺にとって関わりのある人間というのは多くない。依頼主は自然と絞り込める……)
玲芽は自身の知り合いから、自分を排除したいと考えそうな人間を絞り込む。
まずは関わりのある者達のうち、MAOの人間を排除。同士たる彼等が自分を消したいと考えているとは思えないし、思いたくない。
次に楠瀬未梨を排除。あの子が自分を消したいと思っていたとしたら、多分一生モノのトラウマになる。
そこまで来て、未梨のオマケに浮かんだ彼女の友人、小崎の処理に悩む。
(楠瀬と仲良くする俺を疎むのは理解できるが、それだけで俺を殺させるとは考え難い。いやあいつからは楠瀬への異様な執着を感じるし……でも昔話を聞くに随分良識的な人物像ではあるし、楠瀬の友達を疑いたくもないし……)
悩んだ結果、殺しまで考える程の動機を持っていないという理由で彼女の可能性を排除する。
(うん……まあ、そうだよな。まだここらに住んでいる可能性は充分あるし、俺が普通に生きているのを見て危機感を抱くのも理解できる)
玲芽の中で犯人がほぼ確定する。そこまで思考を完了したところで、もう一つの目的の方は──といつの間にか落ちていた視線を持ち上げようとして、不意に耳元で囁く声が聞こえてくる。
「こんなところで、奇遇ね?」
言葉の途中で即座に前方へ駆け、右手に氷の盾を創造しながら背後を確認する。
「クソ……こんな町中にまで」
表情を変えないままそう呟き、前方でくつくつと笑う女──篠崎志乃を睨む。
相変わらず長い髪で顔を覆う志乃の目は拝めないが、顔の角度が少し下がっている。こちらをしっかりと視界に入れていない。
その隙を突くべく玲芽は得意の氷楔を三本創造し、志乃の正面と左右に放出する。
が、氷楔は突如出現した水の塊に受け止められ、スライムの様に粘度の高い水の中で砕け散る。
「ハッハーー! 単独だと思ったかあ?」
「……っ!」
背後からテンションの高い男の声。咄嗟に後方へ氷の壁を創り、防御を整える。
見覚えのない男だが、その姿は異様という他ない。
痩せこけた頬、獣の如く釣り上がった目。それ等は特段異様と表現する程のものではないが、玲芽がそう感じたのはその男が隻腕であったからだ。
ただ隻腕なだけなら初めて見た程度のリアクションで済むが、男の肘から先の虚無には、水でできた腕がくっついている。
「……なるほど。お前が甘音さんに負けたっていう魔術士か」
言いつつ、玲芽は眼前の二人に悟られぬようさり気なく視線を動かす。その二人が目の前に現れた以上、注意しなくてはならない人物がもう一人いる。
「甘音……あいつはやってくれたよ。だがなあ、お前を人質に取ってやれば、あいつは俺の思い通りになるって事だよなあ!!?」
爬虫類の様に細く尖った眼を光らせ、男は並びの悪い見せて笑う。
(幸いここは上と左右が川と線路に阻まれた場所。俺の見える範囲にいない、という事は──)
玲芽はもう一度後方に、今度は硬度や重量の高い氷の壁を創造する。
その直後に、氷の壁は早速己の役割を遂行する。ザクッと細い物が刺さる音が後方から聞こえた。
「……やっぱりいるよな」
「ほう……。先日とは安定感が違うな」
首を少しだけ動かして後方を視野に入れる。陽光の当たるギリギリの場所に、玲芽が最も警戒する魔術士──荒木大地がいた。
(厄介なのはあいつ……。だけど甘音さんに負わされた傷は一週間やそこらで治るものじゃない。俺から距離を取ったままなのも、近距離戦が難しい事を表している)
氷越しに見える大地の巨躯は、玲芽からそこそこの距離がある。目測で十メートル程。その距離は大地の突進で瞬時に無にできる程度だが、その男に踏み込む気配はない。
(戦闘が始まる前に……)
「なあ、一つ訊きたい事があるんだが」
「あん? 俺等には何もねーけ……ど!」
水腕の男がそう言い終えると同時に、右の肩を回す。水の腕が伸び、玲芽の方へ高速接近する。
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