45
そう。二人は高校生になるずっと前に、出逢っていた。
玲芽が“お姉ちゃん”と慕っていた女性に棄てられた数日後、やけに多いおにぎりを手に河川敷にやって来た少女こそが、他ならぬ楠瀬未梨だったのだ。
「結璃の魔術には『本人が本当に大切にしている記憶は複製できない』という特徴がある。それでキミと過ごした数日間が複製できず、あの頃の事をハッキリとは覚えていなかった俺は『結璃が複製した記憶』だけを自分の過去だと捉えてしまっていたんだ。とても大切な……刹那の幸福だったのに、俺はすっかり忘れてしまっていたんだ」
「良いんだよ。こうして思い出してくれたなら、私は錐川くんが思い出してくれた事が、とても嬉しい事だよ」
忘れていた事に罪悪感を抱く玲芽と、自分を思い出してくれた事に幸福感を抱く未梨。
「でも、俺がもっと早く思い出していたら──いや。もう過ぎた事、か。どちらにしても、キミが俺を変えてくれたという事実は変わりないな。楠瀬、本当に……本当にありがとう」
玲芽は否応なしにやって来る自虐的な思考を振り払い、目の前に再び会いに来てくれた未梨へと深々と頭を下げる。
「そ、そんな! 私はそんな大それた事してないよ。錐川くんが人一倍賢くて、自分の事に気付けるのが凄いだけだよ!」
未梨は感謝する玲芽に対し謙遜する。その態度に「いやいや……」と食い下がる玲芽だったが、未梨が何か言いたげな表情をするので一度黙って彼女の話を聞く事にする。
「それにね。あの時はお父さんもお母さんもいなくなって、私はひとりぼっちになってすぐの時だったの。私は今、誰からも必要とされてないんだなーって、ちょっとマイナス思考になっててね。でも錐川くんが一緒にご飯を食べてくれて、私がいないとお腹が空くって──私を必要としてくれたから、あの時の私は前を向いていられたんだよ」
当時玲芽が何気なく放った一言。
それは未梨の中で大きな希望の光となって、彼女の生きる意味として開花していた。
「だから、私からもありがとう。あなたのお陰で、私は今日も元気だけは有り余ってるよ!」
言って、未梨は玲芽の右手を包み込み、どんな花よりも可憐に咲う。
「────ッ」
よく笑う少女である未梨のここ一番の笑顔に、玲芽胸は思わず高鳴りを覚えてしまう。
(ちょ、な、なんだこれ……? と、取り敢えずなんか言え! このままじゃ俺が楠瀬にドキドキしてるみたいじゃないか!)
「い、いや、俺の方が感謝してるし……?」
その高鳴りに慣れていない玲芽は、何とか言葉を繰り出す。やっとの事で吐き出した言葉が『感謝の度合いマウント』であるところは、彼の精神的な幼さと素直さの顕在化だろうか。
「えぇ、絶対私の方が感謝してるよ!」
それに何故か乗っかった未梨が、丸みを帯びた頬を更に丸めて反論する。
そんないつも通りの未梨の姿に幾分冷静になった玲芽は、少し得意げに微笑んで切り返す手札を引き当てる。
「手を握るくらいか?」
「そうそう。思わず手を取ってしまうくらい……わ、ごめん!」
未梨は慌てて玲芽の手を離し、目線を泳がせる。そこで慌てる辺り、その行動は本能的に起こしたものなのだろう。
二人はどちらからともなく高めの手摺りに背を預け、庭園に背を向ける形になる。
「そういえばさ、もしかして錐川くんがおにぎりをよく食べるのって……」
そう指摘されて、初めて玲芽は気付かされる。
「ああ……多分、キミのせいだな」
「もー! せいじゃなくてお陰って言ってよ!」
「キミのせいだ」
「おーかーげ!」
などと言い合いながら、二人は笑い合う。
互いの預かり知らぬところで、互いに影響し合っていた。それがおかしてくて、でも少し心が温かくて。未梨はいつもの幸せそうな笑顔を、玲芽はまだぎこちない微笑みを浮かべる。
「ほほーう。玲芽くんのおにぎり大好き病には、楠瀬ちゃんが関与しているわけだね」
そこで突如、ハーフバルコニーの出入口から聞き慣れた声が届く。
「あ、甘音さん……?」
鉄扉の隙間から、こちらを覗く鋭い眼光と黒髪が見える。
「あ、バレた。こっちを向いた時はビックリしたけど、玲芽くんが楠瀬ちゃんに夢中で助かったよー」
特に悪びれるわけでもなく甘音が扉を開けてこちらに向かってくる。その奥にも見慣れた顔触れが見える。
「結璃に勇武も……。覗き見なんてタチ悪いですよ」
「ごめんねぇ。何だか楽しい事になりそうだったから、つい、ね」
結璃は謝りながらも、甘音と同じく悪びれる様子はない。何ならウィンクまで決めている。
「俺は、止めようと思ってたんだぜ? でも間に合わなかったな〜。俺が来てすぐに甘音さんが声をかけたからな〜」
「ほう、いつから見てたんだよ。勇武は」
態とらしさ全開の勇武。玲芽は疑いの目を向けながら、敢えて訊いてみる。
「えっと『お前と同じ色だ』ってところからだな!」
「殆ど最初からじゃないかよ……」
玲芽は予想通りではあったらしく、溜息混じりに頭を抱える。
「いやーまさか玲芽があんな言い回しをするとはな! かなりキザな言い回しだよなあ! アレ!!」
勇武がここぞとばかりに玲芽の台詞を弄り、腹を抱えて笑う。
「このクソチビハリネズミ……!」
玲芽は先程の発言を掘り返された事に恥ずかしさと怒りを覚え、勇武の身長と髪型、そして悪意を掻き混ぜて錬成した渾名を呼ぶ。
「ああん!? んだよこのアルビノヒョロロンゲがよ!」
身長の事は勇武の地雷だ。そこを念入りに踏みつけた玲芽に、勇武は怒り心頭といった表情で掴みかかるフリをする。心の奥底から怒っているというわけではないようだ。
「ま、まあまあ。見られてたのは恥ずかしいけど、錐川くんだってみんなのお世話になってたわけだし、ね?」
睨み合う玲芽と勇武を、未梨が仲裁する。二人の罵り合いは今に始まった事ではないのだが、未梨にとっては見慣れないものであるし、男声での罵声は大声でなくとも迫力がある。
「そうそう、二人は昔会ってたんだよね? その辺の話詳しく教えてくれない? 私嫉妬の炎で狂い咲きそうなんどけど???」
甘音がどこからどうしたのか、手摺りを背にしている玲芽と未梨の間に立ち二人の肩を抱く。濁った目で二人の顔をキョロキョロと見つめるその姿は、人間離れした負の威圧感がある。
甘音から少し距離のある勇武は咄嗟に引き下がり、その炎の余波を受けないようにする。
「い、いや、大した話じゃない……んですよ?」
「そ、そそそうですよ。昔ちょっと会った事があるだけでしてね?」
怯えている事がバレバレの声色で、二人は甘音に言い訳染みた前置きをする。
「…………なーんて、冗談に決まってるじゃん! 二人ともビビり散らして面白いなー!」
甘音が表情をいつもの明るいものに戻して、ニコニコと笑い出す。
(絶対嘘だ……冗談じゃない。あれが演技だとは思えないし、腕の力が異様に強かった)
玲芽は玉の汗をかきながら、はははと笑い続ける甘音を怯えた目で見つめる。
「いや、本当に冗談だから。怒ってはないよ」
甘音は尚も怯え続ける玲芽の目を見て、その腕を彼等から離す。
(怒って『は』って、やっぱりどうにかして機嫌取った方が良いやつか……?)
「ま、取り敢えずそろそろ暗くなるし。中に入ろうよ。折角だからミノちゃんも、一緒にご飯食べてく?」
一通り見守っていた結璃が、陽が沈みかけている事を理由にその場を去る事を提案する。寒そうな格好をしているので、冷える事を嫌ったのだろうか。
「あ、是非!」
未梨が元気よく手を挙げ、夕飯の誘いに乗る。
その声を合図にするかの様に、結璃も勇武もハーフバルコニーから去っていく。甘音は玲芽の腕を引っ張り、地下の待機場兼食堂へと連れて行こうとする。
「私も頑張らないと……」
「ん?」
最後尾にいた未梨の小さな声に玲芽が振り向く。その意味深な呟きについて玲芽が訊ねようとすると、一陣の風が横薙ぎに吹き抜ける。
五月とはいえ夜の風は少しばかり冷たい。早く中に入ろうと未梨を呼ぼうとすると、先に彼女から「錐川くん!?」と妙に焦ったような大声で呼ばれる。
「どうしたんだ?」
未梨は玲芽の方を指して、わなわなと口を震わせるだけ。それに焦れた玲芽がそう訊くと、未梨は何とか言葉にしようと「か、かお……」と何とか絞り出す。
「かお……顔がどうか──!?」
未梨が絞り出した言葉によって、玲芽は自身に起きた変化に気付く。
先程の風は玲芽の髪を撫で、前髪を乱した。いつもなら膨らんだ目蓋によって左目は細められ、視界が劇的に広くなるという事はない。
──ないはずなのだが、その時の玲芽の視野は、いつも彼が見ているものよりもずっと広がっていた。
その広い視界で未梨を見つめている玲芽は、先程までの彼女と同様に口を震わせて「ま、まさか……」と小さく呟く。
「錐川くんの顔の傷が……なくなってる!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます