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 その日の夕方。玲芽のスマートフォンに着信が来た。ディスプレイには、楠瀬未梨の名前が表示されていた。

 通話開始のボタンをタップして、着信に応じる。


「……どうした?」

『今朝の事、謝っておこうと思って』

「別に、お前が謝る事じゃないだろう」


 少し責任を感じ過ぎる未梨に、玲芽は一つ溜息を吐く。

『でも私の友達の事だし……』

「気にするな。別に怒ったりしてるわけじゃないからな」

『錐川くんがそう言うなら……。ねぇ、明日は学校に来るの?』

「いや。一週間程度休もうと思ってる。時間を挟めば、あいつもそこまで突っかかって来ないだろうと思うし」


 小崎とて玲芽が例の事件を起こした張本人だという証拠が掴めるはずもないだろうし、玲芽が思うに彼女が自分に突っかかってくる理由は、未梨と仲良くしているからだ。時間を空ければあの熱も冷めるだろうと考えていた。


『そうかもね。じゃあさ、私が一週間分の授業のノート、取っておくよ!』

「やめておけ。それが小崎にバレたらつむじ曲げるぞ」

『あ、そ、そっか……』

「まあノートは勇武にでも見せてもらう。俺の事は気にしなくても大丈夫だ」


 そう未梨が心配しないよう問題ない旨を告げると、通話越しの未梨が『うぅん……』と不満げに唸る。


『あ、そうだ。錐川くん、朝何か言いかけてなかった?』

「う、ああ……それか」


 痛いところを突かれ、玲芽は口籠もる。


「それに関しては……その、直接会って話したいんだ。他に言っておきたい事もあるし」

『ええ〜。勿体ぶったのに一週間も延ばすの? 今じゃダメ?』

「ほら……その、色々あるだろう。時と場合ってやつだ」


 食い下がる未梨に、玲芽はなんとシチュエーションを理由にして断る。


『……錐川くんって、なんだか乙女チックだね』

「な、なんだと?」

『いや、あはは〜。まあでも、来週まで学校に来ないなら、先に結璃さんのお家で会えるかもね』


 玲芽の追究を、苦笑と彼の知らなそうな情報で誤魔化す未梨。


「ん、そうなのか?」

『うん。今週の土曜日に結璃さんに呼ばれてるの。用があるって』

「そうか……。なら、それまでに色々整えておく」


 未梨の思惑通りそちらに意識の向いた玲芽は、その日までに彼女への言いたい事を纏めておく事を決めた玲芽。


『へへ、錐川くんってやっぱり……』

「あん?」


 未梨が再び言いかけた事を読み取り、保有する属性の如く冷気を籠めた二音をぶつける玲芽。


『う、ううん。何でもないよ。じゃあ、またね』

「ああ。また」


 そう淡々とした再会の約束をして、玲芽は通話を切る。


「フゥーー……」


 鋭い音を立てて長く息を吐き、頭を会話から思考に切り替える。

 玲芽は今、天宮邸二階にある記憶を見る部屋にいる。未梨からの着信があったため中断していたが、自分の記憶を見返していたのだ。

 真っ白な部屋の中央に立つ台座に、水晶玉を設置する。部屋が闇に覆われ、映像の光だけが存在を主張する。


 再生されているのは、玲芽が“お姉ちゃん”と過ごしていた頃の記憶。

 ──‬彼女を追い続け、頻繁に細まる視線。

 そんなかつての自分を客観視して、玲芽は当時の自分が抱いている感情が見えてくる。



「あぁ……俺は──‬俺は、幸福だったんだな」



 そう呟いた玲芽の腕は垂れ下がり、口元は少し笑っているようにも見える。

 感情を抜きにして見られる他者ならば、すぐに気付けたかも知れない事。

 その先にある出来事を身体に刻まれた玲芽の目には、そんな心境を捉える事ができなかった。

 そして残酷にも孤独へと追いやられた玲芽は、何故そんな状況に自分が置かれたのかが判らなくて、その当時の記憶に感情ごと蓋をしてしまっていた。

 玲芽は台座から水晶玉を抜き取り、それを私有圏にしまう。

 そして玲芽は目を瞑り、結璃が抜き出した記憶の先を回想する。



 甘音に拾われ天宮家に辿り着いてしばらくは、怪我の治療のためベッドの上で過ごす事が殆どだった。

 体内に満ち満ちた魔力のお陰か、適切な処置と栄養摂取を切欠に傷はみるみると快復していった。

 そんな入院生活染みた日々の中、自分の少し年上くらいの少女が会いにきた。


『や、やっほー。調子は、どう……?』


 辿々しい口調でこちらの様子を窺って来た、綺麗な黒髪をした少女。目が泳いでいるのは少し気になったが、取り敢えず返事をする事にした。


『良くもわるくもないけど……』

『そ、そう。良かった』


 会話は続かなかったが、少女はベッドの傍に腰掛けてこちらを見つめ続けている。

 その黒い瞳に覗かれていると、不思議な気分になっていたのを覚えている。いや、今も少し不思議になる。

 光を湛えつつも、その人柄とギャップのある静寂を兼ね備えた、大きな瞳。自分はその時から、彼女の事を悪しからず想っていたのかも知れない。


『あ、ねえ。名前は? あなたの名前はなーに?』

『名前……』


 少女の質問を一部復唱した自分に、彼女が『うんうん』と頷いて綺麗な顔を近付けてくる。

 ──‬簡単なはずのその質問に適した答を、自分は持ち合わせていなかった。


『名前……ないよ。ボク、名前ない』


 親に当たる存在はいたが、名前で呼ばれた事など一度もなかったし、呼んでいたとしてもあれがつけた名前など名乗りたくなかった。

 答えられなかったのに、何故か少女は輝く瞳に一層光を散りばめて『よし!』と声を張り上げる。


『じゃあ、私が名前をつけてあげるね! すっごく良いの考えるから、期待しててね!』


 それだけ言って、嵐の様に去っていった少女。

 その突拍子のなさには慣れなかったが、また会いたいな、とは思った。



 数日後、問題なく立って歩けるようになった日。


『ふっふっふ。おはよう』

『お、おはよう』


 少女と再び顔を合わせ、謎の自信を含んだ笑みを浮かべるその子に少し引いたのを覚えている。


『考えてきたよ、あなたの名前』


 その笑顔の理由は、自分の名前がさぞ良いものになったからだろうか。


『ど、どんな名前……?』


 ──‬その時の心情は、期待と不安が半々だったと思う。自分に名前がつくというのは楽しみではあったが、目の前の少女はよく知らない人だ。そのセンスは計り知れない。


『れいが、だよ。こんな字なんだけど……』


 玲芽。そう書かれた紙を見て、何故か物凄く自然に自分の名前だと受け入れられた。

 いつか何者にも負けぬ綺麗な花を咲かせる、玲瓏な芽。そういう意味を籠めてつけられた名前。


『良い名前、だね。すてきだと思う』

『でしょ!』


 素直な感想を言うと、少女がぱあっと明るい表情になった。


『でも、ちょっと女の子っぽくない……?』

『それは、あなたが──‬玲芽くんが女の子みたいな可愛い顔してるのが悪い、です』


 もう一つの素直な感想も隠さずに伝えると、何だか変な褒められ方をしてモヤモヤした気分になったのもよく覚えている。


『あ、そうだ。私は甘音っていうの。立華甘音。これからよろしく、玲芽くんっ』


 一方的に捲し立てて自分の手を握ってきた少女──‬甘音さん。

 彼女の命名を受け、ようやく自分の名前を手に入れた。



 ──‬歯車がズレたのは、もう少し先の事になる。

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