33


「お待たせ。何か考え事?」


 そこで未梨が、お盆に紅茶と茶菓子を載せて持ってくる。


「ああいや、何でもない」


 玲芽は至って普通を装って、未梨の言葉を受け流す。

 青い花の柄が描かれたティーカップが、二人の前に置かれる。茶菓子が詰め込まれたバスケットと、スティックシュガーの入った箸立てを中心に。


「ミルクもどうぞ」


 ティーカップと同じ柄の小さなミルクポッドを最後に置いて、未梨も椅子に落ち着く。

 玲芽は少し遠慮がちに手を伸ばし、スティックシュガーを二本取る。


「ふふ、甘党さんなんだね」

「うるせぇ」


 ストレートを射し込んでくる未梨に、玲芽は思わず頭の悪い返答をしてしまう。


「ミルク、たくさん用意した方が遠慮なく入れられたかなあ? 全部使っていいからねぇ?」


 寡黙な玲芽が意外にも甘党だった事に何か妙な琴線を刺激されたのか、未梨がどこか幼児を扱うかの様な声色でミルクを勧める。


「お前なぁ……」


 目を細めて未梨を睨む玲芽。そう言いながらも彼の手はミルクポッドへと伸びている。

 その様子に未梨がいつもより気持ち色っぽい笑顔になる。その差異に少しおずおずとしながら、玲芽はテーブルの中心にミルクポッドを戻す。

 未梨はポッドを少しだけ傾けて少量のミルクを、スティックシュガーも一本全ては使わず、半分だけカップに注いで破った先端を折り畳む。


(どうしよう……こいつ、大人だ──‬!)


 味覚の違いに大人か子供かの差は特にないはずだが、玲芽は意外にも未梨が砂糖をドバドバ入れたりしない事にそんな感想を抱く。

 玲芽の驚愕した視線に気付いた未梨は、両手を腰に当てて自慢げに鼻を鳴らす。

 謎の敗北感に見舞われた玲芽。悔しさに歯噛みしつつ、紅茶に口をつける。

 紅茶は飲み慣れていないのでコーヒーと同量の砂糖を入れたのだが、少し多過ぎたかも知れない。きっとそうだ。多分一本でも飲める──‬などと強がっていると、未梨が「このカップ、良いでしょ?」と唐突にティーカップの話題を持ちかけてくる。


「あ、ああ。落ち着きがあって良いと思う。お前が選んだのか?」

「ううん。選んだのは、お母さん。ちょっとその写真立て、立ててみてくれない?」


 言われた通り写真立てを起こし、その四角の中に飾られた思い出を眺める。家族で撮ったと思しき写真だ。三人の人物がそれぞれに笑みを浮かべながら映っている。

 向かって左には少し大柄な男性。残る二人を見守りながら、幸福を内包した笑みを浮かべる白髪混じりの男だ。

 右側には未梨と同じ髪色をした、少し痩せ型の女性。小さな子供に合わせて屈みながら、少し心配そうに、しかしながら男性と同じく幸せそうに笑いながら子の肩に手を当てている。

 中心には、小さな女の子。右手にソフトクリーム、左手に青い風船を持ちながら、口にべっとりとクリームをつけて満面の笑みを浮かべている。


「あーこれかあ。これはね、最後に撮った家族写真なんだ」


 その写真を手に取り、両手で包み込む様に持って見つめる未梨。

 その表情は笑顔でこそあったが、懐古と慈愛──‬そして悲哀が複雑に入り混じったものだった。


「私のお母さんね、身体が強くなくて病気がちな人だったんだ。だけど私の事をすっごく大切にしてくれたし、よくお出かけにも行ってた」


 未梨が美しい過去を思い出す様に、目を瞑って思い出を語る。

 玲芽はティーカップを置き、未梨の言葉に耳を傾ける。決して彼女の過去に前々から興味があったわけではない。一昨日までの自分なら、聞こうともしなかっただろう。

 だが今の玲芽には、彼女の過去への興味が多少ながら芽生えている。その興味がどこから来たのか彼にも定かではないが、それ故今は未梨の誘いを受けてこの家の敷居を跨ぎ、彼女の言葉を傾聴している。


「それでこの日遊園地に行った後、お母さんが倒れて入院したんだ。お父さんはお仕事が忙しい人だったけど、殆ど毎日病院に通ってたんだって。そのくらい、お母さんの事が大好きだったんだと思う。私を産むのも反対するくらい、お母さんの事を気遣ってたらしいから」


 そこで言葉を区切った未梨が目を開き、悲哀の色を強める。


「この日から二、三年経ったくらいかな。お母さん、亡くなっちゃって。お父さんはその事が凄くショックだったみたいで、思い出の詰まっているこの家に帰ってこなくなっちゃったの」


 哀しみを堪える様に笑顔を貼りつけて、未梨は写真立てを元の位置に寝かせる。


「それからずっと、父親は……?」

「うん。もう八年になるかな。顔も見てないよ」


 軽々しくそう答える未梨に、玲芽は黙らざるを得ない。こんな時にかけるべき言葉を、彼は持ち合わせていない。


「それでね。独りになった私の世話をするって名目で、親戚の人達がこの家に出入りし始めたんだ。でも、ね。お父さんが何と言うか、結構お仕事ができる人でお給料も結構貰ってたみたいで……」


 それは、この家の広さや置いてある家具を見て判っていた事だ。そして未梨が口籠もった理由も、何となく判る。


「親戚の目的は、楠瀬ヒトじゃなくて物品カネって事か」


 玲芽の語気は、怒りに少し強まっていた。本人も知らぬ内に湧き上がったその義憤は、未梨の苦笑に受け流される。


「うん、まあ……そんな感じ」


 自然と握っていた拳の力を抜く。そうだ。今ここにいるのは彼女だけで、自分がどう思おうと現状が覆る事はない。

 そう思うと、胸の辺りが苦しくなる。はじめはその痛みの理由が判らなかったが、玲芽は少し考えて答に辿り着く。


(こいつが味わったのは、孤独。その寂しさや苦しさは、俺にだって判る)


 玲芽も家族同然に想っていた人に棄てられた過去がある。彼女の過去と自分の記憶を重ね合わせて、玲芽は未梨の寂しさに共感していたのだ。


「それで、私が親戚の人をみーんな追い出したの。お父さんから生活費は振り込まれてたから、家事さえこなせば生活には困らなかったからね。近所の人達も、どうしても困っていた時は助けてくれたし」

「…………」


 幼い未梨が起こした行動に、玲芽は衝撃を受けた。

 未梨は彼女を利用して利益を得ようとする大人達に敢然と立ち向かい、反抗してみせたのだ。

 弱い人間──‬という未梨へのイメージが変わった玲芽は、その彼女が何となく言い難そうに目をきょろきょろとさせているのに気付く。


「……どうした?」

「錐川くん、この先の事知りたい?」


 その問いに、玲芽は少し考える。


(そう訊かれると、否応なしに興味は湧くし……何よりまだ先があるという事も意外だ。ここで区切ったのは多分、この先はあまり他者に話したくない事なのだろう)


「興味はある。が、話したくなければ話さなければいい」


 未梨の発言から推測した事を鑑みて、玲芽はそう彼女に判断を委ねる。


「そう、じゃあお話しさせてもらうね。私も錐川くんの事、たくさん知っちゃったから。私の事も知ってほしいなって、思ったんだ」

「そう、か……」


 他者を知ったから、自分の事をその他者に知ってほしい。そんな考えは玲芽の中にはなかったものだ。対等な関係を築くという事は、そういう事なのかも知れない。

 そうして未梨は自分の過去を語り出す。


 玲芽はその少女が明かす真相に、耳を傾けた。

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