5 オレンジフィルム・ガーデン
31
枕元のスマートフォンから着信音が鳴り、玲芽はそれで目が覚めた。
ディスプレイには『結璃』の二文字。いっその事狸寝入りしてしまおうかという思いが頭を過ぎる。
だが何が切欠でバレるか判らないし、バレたら後が怖い。物凄く怖い。
ワンコール鳴り終える前に通話に応じるという結論に辿り着いた玲芽は、眠い身体を働かせてスマートフォンを手に取る。
「……はい」
『わー眠そう。おはよう玲芽』
通話越しにも結璃の笑顔が透けて見える。けらけらと笑う声を無視して「おはよう」と緩慢に挨拶を返す。
「で、なんだよ」
『ミノちゃんの検査結果、特に異常はなかったから家まで送ってほしいの』
「……切っていいか?」
朝早くに起こされた理由は、意外にも楠瀬未梨が関与していた。
昨日は戦闘だの何だので非常に疲れていたので、玲芽はすぐに眠ってしまった。幸い土曜日だったのでそのまま十時くらいまでは眠ってやろうと考えていたのだが、まだ八時過ぎ。睡眠が足りていない。
『ダーメ。家に帰すまで安全を保証するのが天宮流にしてMAOの流儀なんだから。ミノちゃんはもう起きてるから、待機場で朝ご飯食べてから送るのよ。それじゃあね』
一通り指示を出して、結璃は通話を切る。
(天宮流なら、自分で送ればいいんじゃないか)
玲芽は誰に聞かれるでもない文句を胸の内に留めて、ベッドから起き上がる。
(そういえば、何か夢を見ていた気がするのに覚えてないな)
外に出る支度の途中、玲芽は考え事をする。
普段眠りが浅い玲芽は、夢の事は起きてから暫くの間覚えている。大抵は拭っても消えない過去の記憶を掘り返すようなものだ。
だが、今朝の夢は覚えていない。夢にさしたる意味はないのかも知れないが、いつも記憶に残るものが残っていないのは少し気味が悪い。
思い出そうと脳を働かせようとして──辞める。先程も思ったように夢に深い意味はないのだろうし、何より着信音に叩き起こされたから頭があまり動かない。
兎にも角にも結璃の指示に従い、天宮邸に移動する事にする。結璃に逆らうと後が怖い。今の楽よりも後の安寧ならば、秤にかける必要もない。
錐川家の住まうマンションと天宮邸は隣に位置している。そもそもこのマンションはMAOの人員が住むための家なのだから、付近に建てるのも自然な事だろう。
道一つ入らない、フェンスに阻まれた裏門を抜けて天宮家の敷地に入る。高いマンションと屋敷の間に挟まれて昼間でもあまり光の入らない鬱蒼とした裏庭を抜け、邸内に足を踏み入れる。
(豪邸の割に裏側のセキュリティ緩いよなあ、ここ)
裏門にも正門と同様の虹彩認証がついているのだが、いかんせん大して高くないフェンス一枚を挟んだ程度のしきりだ。
実際には多量の監視がついており外面よりも警備は厳重なのだが、ならもっと門を高くしろよと思わなくもない玲芽。
自分にはそこまで関係のない警備について色々と考えながら歩いていると、いつの間にかMAOの待機場まで到着する。
声紋認証の扉を開け、人員の数に対して無駄に広い待機場の中を目だけ動かして見渡す。出入口から遠くない四人がけの座席に、未梨がいた。
「……いるじゃん」
何故か未梨の向かいに、結璃が座っている。なら俺を起こす必要ないだろう、と抗議しようとしたが結璃の「あ、ハラスメント野郎だ」という先制必殺攻撃に玲芽は黙らせられる。
「い、いやそれは私が無駄に叫んじゃったのが悪いのであって……」
あわあわと玲芽と結璃の顔を見比べながら、未梨が結璃の発言をやんわりと諌める。
──玲芽が未梨に最後の質問をした後、彼女の叫び声を聞きつけた屋敷の警備員が駆けつけてきた。
玲芽は弁明に困り、身内にも関わらずあわや逮捕という事態になりかけたところで、気不味そうに客間から顔を出した未梨によって事なきを得たのだ。
プライバシーを考慮したのか、その時は警備員には質問内容を訊かれたりはしなかった。だが未梨が個人的に昨晩の事を結璃に話したのだろう。交流を持って日の浅い未梨には、結璃のこういう悪戯っぽいところを見抜けなかったのだろう。
「まあ、質問が悪かったのは認めるが……」
言いながら玲芽が結璃の隣に座る。一つ大きな溜息を吐きながら、玲芽は隣の結璃をキッと睨む。
「んで。何で結璃が暇そうなのに俺が呼び出されたんだ?」
「何でって……何となく?」
結璃がなんともふわっとしている上に疑問系の答を返す。その人遣いの荒さからは不遜たる王のオーラが窺える。
言葉が出ない玲芽は黙ってもうひと睨み結璃にくれてやるが、その対象はふっと向かって左上に視線を逸らす。
その所作に、玲芽はどこか違和感を覚える。
(ああこれ、隠し事してるやつ)
周囲は表情のバリエーションに乏しい玲芽の感情を僅かな眉や目の動きで捉える事ができているらしいが、それは玲芽にも言える。
玲芽の目は長年顔を見合わせ続けた甘音や結璃の表情変化を見抜き、微細な感情や隠し事の有無を判断できる。
結璃は嘘をついた時、その相手と数秒間目を合わせず上方に目を逸らす傾向がある。数秒で済むだけ隠せている方ではあるが、長く連れ添った仲であれば見分けるのは容易い方だろう。
「まあ、いい。結璃も飯食うのか?」
嘘をついている事は判ったが、結璃が自分のための嘘や仲間の損になる隠し事をする事はない。それは玲芽の経験から編み出された結論だ。
そう思って玲芽は敢えて指摘せず、結璃に別の話題を持ちかける。
「んーん。私はもう食べたわ。後はお若い二人に〜、ってやつね」
結璃は立ち上がり、くしゃくしゃと玲芽の頭を撫でて「ご飯は私の奢りだから」とだけ言い残してその場を去る。
(子供扱いしやがって)
乱れた髪を軽く直し、玲芽は未梨の方に視線を切り替えつつ立ち上がる。
「じゃ、注文行くか」
その言葉に未梨も立ち上がり、ふわりと微笑って言う。
「うん。二食連続で一緒にご飯、だね」
ピリッ──と、頭の中に何かしらのノイズが走る様な感覚が走る。
『いっしょにごはん、たべよ?』
白い靄のかかった記憶の中で、誰かがそう言った気がした。
すぐにその記憶は濃霧の中に──或いは脳の深層へと──消えていく。
(何だ、今の)
覚えのない景色と声に、玲芽は右目を細めて頭を抱える。
そんな玲芽の姿を心配してか、未梨が小さな身体を丸めて彼の俯いた顔を覗いてくる。
「どうしたの?」
「──ッ。いや、何でもない。行くぞ」
未梨の声に平静を取り戻した玲芽が、ふいっと顔を逸らしてカウンターへと向かう。
記憶の中で声をかけてきた、靄のかかった少女の影と未梨の姿が重なった錯覚に見て見ぬふりをして。
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