28


 数日後の夜。玲芽は玄関の方をじっと見つめ“お姉ちゃん”の帰りを待ち侘びていた。

 時刻は午後八時を過ぎている。いつも午後七時には帰って来る“お姉ちゃん”だが、今日はいつもより遅い。


『まだかなー。まだかなー』


 退屈そうに身体を揺らしながら独り言を呟く玲芽。

 ぐぅ、と腹の鳴る音が聞こえる。一人で食事を用意する手段を持たない玲芽は、そういった意味でも“お姉ちゃん”の帰りを待っている。


 ガチャ、と勢いよくドアが開かれる音がする。待ち人来たりと玲芽は立ち上がり、とてとてと玄関の方へ駆け出す。

 しかし扉から現れたのは、玲芽の待ち侘びた“お姉ちゃん”ではなかった。


『よぉ。お前がマガツメのガキかよ』

『え、だれ──‬ぁぐっ!!』


 正体不明の男性に声をかけようとした玲芽の言葉は、容赦のない顔面への蹴りに妨げられる。後方へと吹き飛び、背中を強く打ちつける。


『うべ……ぇ……?』


 よろよろと上体を起こし、蹴りを放った男の方を見る。

 根元が黒い金髪の、大柄で日焼けした身体が特徴的な男だ。幼い玲芽の身体は小さく、より巨大な岩壁にすら錯覚させられる。

 その男が後方へ顔を向け、開けっぱなしのドアの方に声をかける。


『こいつヤッちまって良いんだよな? 飯田』

『良いわよ。適当に痛めつけて、どこかに棄てて来て』


 言いながら玄関から入ってきたのは、玲芽が待ち続けていた“お姉ちゃん”だった。


『あぇ……おね、ちゃ……』


 鼻か口を押さえながら、その姿に立ち上がり玄関へと向かおうとする玲芽。男の足元を抜けて歩こうとすると、隆々とした足先が玲芽の腹を突き刺す。

 先程よりも『飛ばす』事に重点を置いた蹴りにより、玲芽の身体は天井付近まで浮き上がり一気にリビングまで戻される。出会い頭の顔面への一撃で鼻血が出ていたのか、浮遊と同時に赤い血が弧を描く。


『うがぁぁぁぁぁぁ!!』


 左半身から床にぶつかり、激しい痛みに悲鳴を上げる。


『うるせぇガキだなぁ。飯田、躾がなってねーよ』


 ニヤニヤと口角を吊り上げながら、ゆっくりと倒れる玲芽に近付く男。

 だが虐待の日々にいた時と違い、この時の玲芽には知恵があった。

 痛みを堪えて立ち上がり、玲芽は周囲を見渡す。恐らく何か使える物がないか、探しているのだろう。


『何をしようがガキのやる事だろ──‬?』


 いやらしい笑顔を崩さぬままリビングへ侵入してくる男に、座布団が飛んでいく。男の顔面へと飛ぶ座布団だが、空中で弾き飛ばされる。

 その隙に玲芽は低いテーブルの脚を一本持ち上げ、男と先程まで自分がいた位置の間を阻むように位置を変える。飽くまで座布団はブラインドのようだ。


『こんなもんで……いってぇ!!?』


 座布団を振り払って玲芽へと近付こうとした男が、テーブルの側面に脛をぶつける。玲芽が反対側からテーブルを押し出した事により、回避が間に合わなかったらしい。

 玲芽は男が痛がる隙にテーブルの上を駆け、玄関へと逃亡する。だが玲芽はすぐに立ち止まってしまう。

 扉の前で待ち構えていたのは、玲芽を睨む“お姉ちゃん”だった。


『お、おね、ぇ、ちゃん……?』


 いつもの慈愛に満ちた微笑みとは違い、彼女は表情を凍らせて刃の様な視線で玲芽を睨んでいた。


『リビングに戻りなさい。出て行っていいなんて言ってないよ?』


 その言葉に、玲芽は『へ?』と脱力した一音を放つ。今まで自分を愛してくれた“お姉ちゃん”が暴力の待つリビングへ戻れと命令したのが、余程信じ難い事だったのだろう。


『え、でも僕戻ったら『いいから、戻るの。戻って……戻れよ! 早く!!』

『ひっ──‬!』


 玲芽は声を張り上げて強く命令する“お姉ちゃん”に驚き、身を竦める。不意に視界が真上へと昇り『やってくれたな、お前……!』と怒気に満ち満ちた男声が右の耳元から入ってくる。


『痛い痛い!! やめてよぉ!!』


 どうやら髪を持ち上げられているらしく、玲芽はその痛みに激しく叫ぶ。


『ガキだからって嘗めてたわ……そういや、お前は世にも恐ろしいマガツメのバケモノだったなぁ?』


 玲芽の身体を回転させて、自分の方に向けさせる男は、その笑みに強い怒りを混ぜ合わせていた。


『覚悟しろや?』


 痛みに叫び続ける玲芽の顔に向けて、その巨岩の如き拳が突き刺さる。


『うぶっ!』


 ボタボタと床に血が落ちる。鼻血のようだが、量が多過ぎる。唇も切ったのかも知れない。


『おら! おら!!』


 宙吊りになったままの玲芽の身体に、二度三度と拳をぶつける。玲芽は意識が朦朧としているのか、霞んだ景色を写すだけで反応はしない。

 リビングへと移動し、玲芽の後頭部を掴んでテーブルへと額をぶつける。そのままべたりと床に顔をつける玲芽に、抵抗を試みる気配はない。

 身体を反転させられ、男が玲芽の頭を鷲掴みにして視界を塞ぐ。


『痛えよなあ? 人間様に硬いモンぶつけちゃいけねぇよなあ? バケモンの分際でよぉ!!』

『う……ぐ……がぁ……』


 玲芽の内部からミシミシと音が聞こえる。相当な握力で頭を握られているのだろう。

 閉ざされた視界のまま、どん、どんと後方から何かぶつかるような音が聞こえる。何をされているのかは判らないが、痛めつけられている事は想像に難くない。

 数分程度その音が続き、玲芽が床に投げ捨てられる。すぐさま男の足が玲芽のぼやけた視界を再び塞ぎ、何度も何度も踏みつけてくる。

 暴力は、玲芽が気を失っても続いたらしい。

 切れかけの電灯の様に視界は暗転と点灯を繰り返し、目を覚ます度に男は様々な方法で玲芽の小さな身体に痛みを植えつける。


 殴り、蹴り、叩き、投げ、踏み、折り、捻り、絞め。


 殴打も足蹴も、鼻や唇といった出血し易い箇所や鳩尾を狙ってショックと苦痛を狙っていた。

 踏みつける時は、場所と力強さを以って胃の中の物を吐かせた。

 投げる時は家具の角や割れたガラスのテーブルの破片の方へと投げ、更なる痛みを味わわせた。

 指の骨を折る瞬間は、顔を逸らす玲芽の目に無理矢理入れるようにして恐怖を与えた。

 肩を捻って外す時は態と時間をかけて、関節が外れる感覚を脳髄に擦り込んだ。

 首を絞める時は、敢えて全力で絞めずに意識を保たせて苦しみ続けるようにしていた。



 暴力に飽きたのか、男が『こんなもんだろ』と呟いて玲芽から離れる。

 それを目で追おうともしない玲芽は、放心状態なのか『あぁ……ぅあ……』と自然に出る声を発しながらどこを注視するでもない目で天井を写すだけだ。

 その白い視界に、ふっと女性の姿が入ってくる。玲芽は即座にその影に注目する。


『あ……おね、ちゃ……』


 喜色を含んだ玲芽の声。


 ──‬痛くて苦しいだけの時間は過ぎた。きっと“お姉ちゃん”は、自分を優しく抱き締めてくれる。

 そんな想いがあったのかは定かでないが、そうでもなければ、動く一本だけの腕を彼女の方に伸ばしたりはしないだろう。


 だがその希望は、あっさりとへし折られる。

 玲芽の右腕を蹴り飛ばし、その女は骨が折れているであろう玲芽の腹に乗り、その冷たい目に黒い熱を帯びさせて睨みつける。

 そして玲芽の首に両手を回す。


『え……?』


 信じられない、といった感情を一音で表現する。玲芽は抵抗もせず、ただ“お姉ちゃん”だったその女の負の感情に満ちた目を見るだけだ。


『まだ信じてるの……? 本当に、呆れるくらいバカなのね』

『あ、ぐ、ぐるし……ぐるしいよ』


 女の腕に青筋が立ち、首を絞める力を強めていくのが判った。


『君が……お前が!! 人間みたいに振る舞うから!! 私もそう扱ってしまったのよ!!』


 ──‬重なる。

 その女の姿が、かつて玲芽に虐待を施した実母と同じ様な黒い怪物に変貌する。


『あ……は……』


 玲芽は言葉を発する力も奪われ、ただ苦し紛れに言葉未満の声を発するだけ。


『私は悪くない……! 悪いのはお前なの……だから……ッ!!』

『殺しちまうのはヤベーよ』


 後方から怪物の腕を掴み、玲芽から引き剥がす男。

 苦しみから解放された玲芽は、大きく呼吸して己の生命を維持する。

 そうしていると男が大きく視界に映り、玲芽を持ち上げたのか一気に視界の高度が上昇する。


『じゃ、こいつ棄ててくっから、シャワー浴びとけよ。そういう約束だったよな?』

『判ってるわよ……』


 そんな言葉を交わし、男が移動したのか“お姉ちゃん”だったその怪物が遠ざかっていく。


『あ……』


 折れ曲がった右腕を命からがらに伸ばし、こちらを見向きもしない怪物──‬その女性を呼ぼうとする玲芽。

 声も出ない。でも、呼んだって彼女はもう振り返らないのだろう。

 優しい記憶の残るその部屋から追放され、玲芽を担ぐ男は人気のない夜の道を進んでいく。


 吐く息が白く、その寒さを物語る。温かな部屋に籠もりきりだった玲芽は外套の一枚も着ておらず、耳を澄ませばカチカチと寒さに震え歯を鳴らす音が聞こえてくる。


 ある程度歩いたところで、男は河川敷に降りる。

 突然玲芽の視界が何周も回転して地面に近くなる。月明かりだけが頼りの暗い視界の中、回り回って真上を見ていた玲芽に男が唾を吐きかける。


『ま、自分の産まれを憎めや』


 それだけ言って男は玲芽の元から去っていく。然程彼に興味はないのか、玲芽の目は彼を追おうとはしない。ただ直上にある橋の底面を見つめるだけだ。


 天蓋の様に空を覆い隠す橋に向けて、ぼろぼろの手を伸ばす。

 視界が滲んでいく。びゅうびゅうと音を立てて吹き抜ける風にその身を晒しても、その目に溜まった涙は止め処なく溢れてくる。


 腹が鳴る。空腹の概念を知ってしまったから。

 涙が出る。喜怒哀楽を与えられてしまったから。


『どうして……?』


 判らない。考える頭を培われてしまったから。

 光の無い空の下。応える者のいない疑問を小さく呟きながら、幼い玲芽は独りの夜を過ごす。


『帰りたいよ……』


 諦める様に手を地につけ、無力を悟る様に目を瞑るその刻まで、玲芽は失われた温もりを探し続けた。

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