27


 そこからは、心が落ち着く様な穏やかな日々が続いた。


 字や言葉を教わり、十分な食事や睡眠を摂り、彼女の優しさに甘える日々。

 よく笑っているのか、視界が狭まるのも随分と頻繁になった。

 特に目が細まるのは、“お姉ちゃん”の膝の上で絵本を読み聞かせてもらっている時だった。


『はるくんははるがだいすきです。あざやかなけしき、あったかいかぜ。それになにより、じぶんとおなじなまえだからです』


 その声をバックグラウンドにしているかの様に、優しい時間が流れる日々が連続して再生される。

 二人で風呂の掃除をした事。髪を切ってくれた事。


『はるくんはなつがとてもきらいです。せみをつかまえるのはすきだけど、しゅくだいがいーっぱいあるし、そとであそぶとおはだがヒリヒリするし、なによりつぎのはるまでとてもながいあいだ、またなきゃいけないからです』


 読み書きを教わった事。一緒に折り紙で色々な物を折った事。


『はるくんはあきがすきです。いろはちがうけどあざやかなけしき、あたたかではないけどすずしいかぜ。それになにより、ともだちのあきちゃんとおなじなまえだからです』


 勝手にコンロを使おうとして火傷し、泣きながら怒られた事。そのあとに強く強く抱き締められた事。


『はるくんはふゆがきらいです。さむくてそとにでられないし、くらいそらはとてもさびしいきもちになってしまうからです』


 熱を出した時、お粥と摩り林檎を食べさせてくれた事。夜中に起きてしまった時、子守唄を歌って寝かしつけてくれた事。

 絵の様に過ぎ往く時間の全てが、輝いている様に見えた。


 ──‬あまり本のレパートリーは多くない。だが何度目の読み聞かせであろうと、玲芽は何か文句を言う事もなく、寧ろ何度目であろうと楽しんでいる様子が窺えた。

 だが“お姉ちゃん”にも個人の時間がある。恐らくは学生であろう彼女は、平日の昼間や時折夜まで家を空ける。


 そんな時間──‬瞬きする間に過ぎていくような時間ではあったが──‬は用意してもらったテキストで読み書きを勉強したりしていた。それが功を奏して玲芽は言葉でのコミュニケーションが取れるようになった。


 ある日、玲芽は何か異物感を覚えたのか、胸を強く押さえていた。その力の強さは小さく白い手の甲に立った青筋が物語っている。

 その感覚が消え去ったのか、玲芽は胸を押さえていた右手を離す。

 ──‬その掌には、青白い光が淡く輝いていた。




『いただきます』

『いただきます!』


 二人で食前の挨拶を行い、夕飯に手をつける。

 努力の賜物か箸の扱いも上手くなり、食事は何の問題もなく行えるようになっていた。


『どう、美味しい?』

『うん。おいしいよ』


 そんな何気ない会話一つ取っても、視界は細まり笑っているのが窺える。

 そのままぱくぱくと白米や鶏肉を平らげ、食後の挨拶をしようとしたところで“お姉ちゃん”はキッチンの方へと行ってしまう。


『ごちそうさまは?』

『ご馳走さまの前に、はい』


 戻ってくるなり、机の上に小さなケーキを置く。


『どうしたの? ケーキはとくべつな日だけだよ? それに……』


 真ん中に苺が乗った円柱形ショートケーキを前にして、首を傾げる玲芽。ケーキが一つだけしかないところも疑問点なのだろう。


『今日は坊やが来てからちょうど半年だよ。だからそのお祝い』


 言って“お姉ちゃん”はスプーンを手渡す。握ったスプーンとケーキを交互に見つめ、玲芽は口を開く。


『じゃあ、はんぶんこしよ。はんとしだから、はんぶんこ。その方がきっともっとおいしいよ!』


 玲芽がそう言うと、“お姉ちゃん”は満面の笑みを浮かべ『ありがと。じゃあ遠慮なくいただくね』と答える。

 ケーキを一度キッチンへ持って行き、小皿に半分ずつ切り分けて持ってくる。そして今度は玲芽の隣に座る。


『じゃあ、食べよっか』

『うん!』


 そして二人は同時にケーキを食べ始める。


『おいしぃ〜』


 ケーキの甘味に、玲芽は舌鼓を打つ。そんな姿と言葉に“お姉ちゃん”も『本当に美味しいね』と優しく答える。

『はい坊や。苺はあげるね』


 “お姉ちゃん”がスプーンに乗せた苺が、視界に迫る。そして口の中に消えた後、視界が狭まる。


『ありがとお姉ちゃん』

『半年ではんぶんこだから、一年経ったら一つ食べようね』

『うん!』


 そんな会話を挟みつつ、ケーキの様に甘い時間が流れ、二人はケーキを完食する。


『ご馳走様でした』

『ごちそうさまでした!』


 食後の挨拶を済ませ“お姉ちゃん”は空になった食器をキッチンに持って行く。

 流れる水の音。玲芽は上機嫌なためか、視界を左右に揺らす。


『きゃあっ!』


 そんなゆったりとした時間は、“お姉ちゃん”の短い悲鳴によって途切れる。

 その声に素早く反応した玲芽は、キッチンの方へ駆ける。


『どうしたの?』


 蹲る“お姉ちゃん”に寄り添い、心配そうに声をかける玲芽。


『む、虫が……』


 弱々しく発しながら“お姉ちゃん”はキッチンの壁を指す。

 その視線の先に玲芽の目が行く。そこには黒く大きなゴキブリが壁を這っていた。

 動いては止まり、動いては止まり。ストップアンドゴーを忙しなく繰り返すその動きからは、生理的嫌悪を感じずにはいられない。

 視線がキッチンの壁から“お姉ちゃん”に切り替わり、涙目になりながら震える彼女の姿を捉える。


『うぅぅ……!』


 威嚇する獣の様な唸り声を上げて、玲芽は再び虫を視界に入れる。縦横無尽に這い回る虫を具に捉え、常に視界の中心に入れ続ける。

 そして精一杯開いた右手を突き出し、その手の先を青く輝かせる。

 バチ、バチとひびの様な線が幾重にも描かれ、光が球体状に収束する。


『あぁッ!!』


 短く叫び、光を放つ。高速で虫が這う壁へと激突した光は、着弾点で一際大きな音を立てる。

 壁に焦げつく様な跡がつき、辛うじて残ったゴキブリの脚が落ちる。


『虫、倒したよ! お姉ちゃん!!』


 愛しの“お姉ちゃん”の心を脅かす者を排除して、喜びながらそれを彼女に伝える玲芽。


『…………今の、魔術……』


 目を見開きながら、壁の焦げ跡を凝視する“お姉ちゃん”。その青褪めた表情からは、驚愕よりも恐怖の感情が見て取れた。


『どうしたの?』


 玲芽が“お姉ちゃん”の様子に違和感を覚えて首を傾げる。ビクッと身体を跳ねさせた“お姉ちゃん”が笑顔を作って立ち上がり『あ、ありがとね……』と震える声で言いつつキッチンを後にする。


『うん……? お姉ちゃん?』


 流石に作り笑いである事を察したのか、玲芽はその背中を追いかける。


『ごめん、私もう寝るね? おやすみ』


 言って、ピシャリと寝室へのドアを閉じる。


『……へんなお姉ちゃん』


 まだ眠くならない玲芽はリビングの座布団に座り、また首を傾げるのであった。

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