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そこからは、心が落ち着く様な穏やかな日々が続いた。
字や言葉を教わり、十分な食事や睡眠を摂り、彼女の優しさに甘える日々。
よく笑っているのか、視界が狭まるのも随分と頻繁になった。
特に目が細まるのは、“お姉ちゃん”の膝の上で絵本を読み聞かせてもらっている時だった。
『はるくんははるがだいすきです。あざやかなけしき、あったかいかぜ。それになにより、じぶんとおなじなまえだからです』
その声をバックグラウンドにしているかの様に、優しい時間が流れる日々が連続して再生される。
二人で風呂の掃除をした事。髪を切ってくれた事。
『はるくんはなつがとてもきらいです。せみをつかまえるのはすきだけど、しゅくだいがいーっぱいあるし、そとであそぶとおはだがヒリヒリするし、なによりつぎのはるまでとてもながいあいだ、またなきゃいけないからです』
読み書きを教わった事。一緒に折り紙で色々な物を折った事。
『はるくんはあきがすきです。いろはちがうけどあざやかなけしき、あたたかではないけどすずしいかぜ。それになにより、ともだちのあきちゃんとおなじなまえだからです』
勝手にコンロを使おうとして火傷し、泣きながら怒られた事。そのあとに強く強く抱き締められた事。
『はるくんはふゆがきらいです。さむくてそとにでられないし、くらいそらはとてもさびしいきもちになってしまうからです』
熱を出した時、お粥と摩り林檎を食べさせてくれた事。夜中に起きてしまった時、子守唄を歌って寝かしつけてくれた事。
絵の様に過ぎ往く時間の全てが、輝いている様に見えた。
──あまり本のレパートリーは多くない。だが何度目の読み聞かせであろうと、玲芽は何か文句を言う事もなく、寧ろ何度目であろうと楽しんでいる様子が窺えた。
だが“お姉ちゃん”にも個人の時間がある。恐らくは学生であろう彼女は、平日の昼間や時折夜まで家を空ける。
そんな時間──瞬きする間に過ぎていくような時間ではあったが──は用意してもらったテキストで読み書きを勉強したりしていた。それが功を奏して玲芽は言葉でのコミュニケーションが取れるようになった。
ある日、玲芽は何か異物感を覚えたのか、胸を強く押さえていた。その力の強さは小さく白い手の甲に立った青筋が物語っている。
その感覚が消え去ったのか、玲芽は胸を押さえていた右手を離す。
──その掌には、青白い光が淡く輝いていた。
『いただきます』
『いただきます!』
二人で食前の挨拶を行い、夕飯に手をつける。
努力の賜物か箸の扱いも上手くなり、食事は何の問題もなく行えるようになっていた。
『どう、美味しい?』
『うん。おいしいよ』
そんな何気ない会話一つ取っても、視界は細まり笑っているのが窺える。
そのままぱくぱくと白米や鶏肉を平らげ、食後の挨拶をしようとしたところで“お姉ちゃん”はキッチンの方へと行ってしまう。
『ごちそうさまは?』
『ご馳走さまの前に、はい』
戻ってくるなり、机の上に小さなケーキを置く。
『どうしたの? ケーキはとくべつな日だけだよ? それに……』
真ん中に苺が乗った円柱形ショートケーキを前にして、首を傾げる玲芽。ケーキが一つだけしかないところも疑問点なのだろう。
『今日は坊やが来てからちょうど半年だよ。だからそのお祝い』
言って“お姉ちゃん”はスプーンを手渡す。握ったスプーンとケーキを交互に見つめ、玲芽は口を開く。
『じゃあ、はんぶんこしよ。はんとしだから、はんぶんこ。その方がきっともっとおいしいよ!』
玲芽がそう言うと、“お姉ちゃん”は満面の笑みを浮かべ『ありがと。じゃあ遠慮なくいただくね』と答える。
ケーキを一度キッチンへ持って行き、小皿に半分ずつ切り分けて持ってくる。そして今度は玲芽の隣に座る。
『じゃあ、食べよっか』
『うん!』
そして二人は同時にケーキを食べ始める。
『おいしぃ〜』
ケーキの甘味に、玲芽は舌鼓を打つ。そんな姿と言葉に“お姉ちゃん”も『本当に美味しいね』と優しく答える。
『はい坊や。苺はあげるね』
“お姉ちゃん”がスプーンに乗せた苺が、視界に迫る。そして口の中に消えた後、視界が狭まる。
『ありがとお姉ちゃん』
『半年ではんぶんこだから、一年経ったら一つ食べようね』
『うん!』
そんな会話を挟みつつ、ケーキの様に甘い時間が流れ、二人はケーキを完食する。
『ご馳走様でした』
『ごちそうさまでした!』
食後の挨拶を済ませ“お姉ちゃん”は空になった食器をキッチンに持って行く。
流れる水の音。玲芽は上機嫌なためか、視界を左右に揺らす。
『きゃあっ!』
そんなゆったりとした時間は、“お姉ちゃん”の短い悲鳴によって途切れる。
その声に素早く反応した玲芽は、キッチンの方へ駆ける。
『どうしたの?』
蹲る“お姉ちゃん”に寄り添い、心配そうに声をかける玲芽。
『む、虫が……』
弱々しく発しながら“お姉ちゃん”はキッチンの壁を指す。
その視線の先に玲芽の目が行く。そこには黒く大きなゴキブリが壁を這っていた。
動いては止まり、動いては止まり。ストップアンドゴーを忙しなく繰り返すその動きからは、生理的嫌悪を感じずにはいられない。
視線がキッチンの壁から“お姉ちゃん”に切り替わり、涙目になりながら震える彼女の姿を捉える。
『うぅぅ……!』
威嚇する獣の様な唸り声を上げて、玲芽は再び虫を視界に入れる。縦横無尽に這い回る虫を具に捉え、常に視界の中心に入れ続ける。
そして精一杯開いた右手を突き出し、その手の先を青く輝かせる。
バチ、バチとひびの様な線が幾重にも描かれ、光が球体状に収束する。
『あぁッ!!』
短く叫び、光を放つ。高速で虫が這う壁へと激突した光は、着弾点で一際大きな音を立てる。
壁に焦げつく様な跡がつき、辛うじて残ったゴキブリの脚が落ちる。
『虫、倒したよ! お姉ちゃん!!』
愛しの“お姉ちゃん”の心を脅かす者を排除して、喜びながらそれを彼女に伝える玲芽。
『…………今の、魔術……』
目を見開きながら、壁の焦げ跡を凝視する“お姉ちゃん”。その青褪めた表情からは、驚愕よりも恐怖の感情が見て取れた。
『どうしたの?』
玲芽が“お姉ちゃん”の様子に違和感を覚えて首を傾げる。ビクッと身体を跳ねさせた“お姉ちゃん”が笑顔を作って立ち上がり『あ、ありがとね……』と震える声で言いつつキッチンを後にする。
『うん……? お姉ちゃん?』
流石に作り笑いである事を察したのか、玲芽はその背中を追いかける。
『ごめん、私もう寝るね? おやすみ』
言って、ピシャリと寝室へのドアを閉じる。
『……へんなお姉ちゃん』
まだ眠くならない玲芽はリビングの座布団に座り、また首を傾げるのであった。
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