26
『う……ん』
『あ、起きた』
ぼやけた視界の中で、そう呟く細い声。
段々とハッキリしていく世界の中心に、またこちらを見下す女性がいた。
だが今度の女性は、顔がはっきりと見えていた。長い茶髪に細い輪郭。際立って美しい容貌ではないが、丸眼鏡の奥に覗く蒼い瞳は慈愛に満ちた光を湛えている。
どうやらベッドの上に寝かされているらしい。物珍しそうに右手で掛け布団をバタバタと動かして、また元に戻す。
『きみ、お名前は?』
そう声をかけられて、だが答を持ち合わせていない──というより何かを問われている事にさえ気付いていない可能性もある──玲芽は、じっとその女性の目を見つめ返すだけだ。
『どこから来たの?』
『…………』
『親御さんは……まああんな状態だったんだし、訊いたって仕方ないよね?』
質問を諦めて、女性はすっと玲芽の方に手を伸ばす。
生家にいた時を思い出したのか咄嗟にキュッと目を瞑るが、次第に少しずつ目を開ける。
女性は『よしよし』と微笑みながら、玲芽の頭を撫でているようだ。
『……はは』
笑い声を上げたのは、玲芽。女性の行為が心地良かったのか、今度は少しずつ自然に目蓋を垂れ下げていく。
『くふふ、可愛い』
少し遠慮気味に笑い声を上げて、女性は『おやすみ』と一言添えて、最後に一度トンと玲芽の頭に優しく手を置く。
その言葉に従う様に玲芽は完全に目を閉ざし、恐らく産まれて初めて穏やかな眠りにつくのだった。
目を覚ますと、同じ布団に女声が包まっていた。
玲芽の動作に起こされた女声が、まだ眠そうに目を擦りつつ付近に置いた眼鏡をかける。
『おはよう、坊や』
『おはよぅ、ぼや』
辿々しく、言わなくていい部分まで女性の真似をして挨拶をする玲芽。
『お腹空いた?』
言葉をまったく知らない玲芽は、女性の問いに視線を返すだけだ。
『んー……“お姉ちゃん”について来て』
そう言って玲芽の手を取り、部屋を移動する。
テーブルの一角に座らせて“お姉ちゃん”は一人キッチンの方へと向かう。
暫くして“お姉ちゃん”が戻ってくる。両手にお盆を持ち、その上にあった物を玲芽の目前に置く。玲芽の隣に座った“お姉ちゃん”が、レンゲを手に取って『食べよ?』と器に入ったお粥を掬い取る。
『歯が随分抜けてたみたいだから、柔らかい物を用意したんだけど』
玲芽の口元までお粥が迫る。“お姉ちゃん”があーと口を開けるので、真似をしてみる。するとレンゲが口の中まで入ってくる。
“お姉ちゃん”の手元に戻ったレンゲには何も乗っていない。玲芽の口内に残ったのだろう。
『呑み込んで。ごくんって』
『ん……っく』
玲芽がそう小さく発声する。
『よくできました。じゃあ、いっぱい食べようね』
そうやって、玲芽のはじめての食事は滞りなく過ぎていった。
昼間は“お姉ちゃん”も用事があるらしく、玲芽は家で眠るだけだった。夕方になって食事を済ませ“お姉ちゃん”に連れられて、風呂場へと移動する。
服を脱がされ、先に浴室へと入る。玲芽は浴槽ではなく鏡をじっと見つめている。
横髪や後ろ髪はボサボサに伸びきっている。ただ前髪は不自然に短い。産みの親にアイロンを押しつけられた時に融けてしまったのだろうか。
全身──特に左半身には多く傷が残っている。現在の玲芽の様に汚れた緑に染まっており、生々しさよりも異質さの方が目立つ。
目も既に赤と黒のオッドアイになっており、膨らんだ目蓋から黒い左目が見えている。
『おまたせ。さ、身体綺麗にしようね』
“お姉ちゃん”がシャワーから湯を出す。湯気を立てながら噴き出すシャワーの湯に、玲芽は『わっ!!』を声を上げて狭い浴室の角に引っ込む。
熱されたその湯を見て、記憶に強く残っているアイロンの熱を思い出したのだろう。
『どうしたの? 怖がる程熱くないよ?』
“お姉ちゃん”が自分の細い身体に湯をかけ、平気である事をアピールする。その姿をじっと見て、玲芽は少しずつ“お姉ちゃん”に近付く。
そして右手を差し出し、噴出するシャワーに指先で触れる。
『平気?』
そう声をかけてくる“お姉ちゃん”の目をじっと見返して、玲芽は『へーき』と意味も判らず答える。
少しずつシャワーが腕から身体へと流れ、最後に頭から湯を被る。
シャワーの湯を恐れずに浴びた玲芽に“お姉ちゃん”が『偉いねぇ』と褒め、一度シャワーの蛇口を閉める。
『シャンプーするから、目を閉じててね。こうやって』
玲芽が言葉を知らない事を判ったのか“お姉ちゃん”が実際に目を閉じて例を示す。
玲芽が真似をしたようで、視界が閉ざされる。
しゃこしゃこ、と頭を洗う音やそれが擽ったいのか玲芽の『ぬふふ……』という遠慮気味の笑い声が聞こえてくる。
(わ、私は……この映像を見ていて良いのだろうか?)
未梨は少し居た堪れない気分になる。
今は視界が黒で閉ざされているが、先程は幼いとはいえ玲芽の裸体を目にしてしまった。幼年の純粋な玲芽は可愛らしく、今の捻くれた彼からは想像もできない。
(いやいや。錐川くんからお許しをもらっているわけだし、小さな子供の裸を見たって何も思うところなんてない。ないよ!)
誰にするでもない言い訳をして、首をふるふると横に振る未梨。雑念を振り払い、再び開かれたかつての玲芽の視界に意識を向ける。
『ほら、おいで』
先に浴槽へ入った“お姉ちゃん”が座りながら手を伸ばす。玲芽は既に警戒も躊躇もなく浴槽内へと入り、彼女の脚の上に座る。
『あったかいね〜』
『あったかいね』
“お姉ちゃん”の腕に包まれて──恐らく精神的なものも含めた──温もりに目を細める玲芽。
不意に玲芽の左腕が持ち上げられ“お姉ちゃん”の手がその汚れた緑をなぞる。
『やっぱり、消えないんだな……』
『……?』
腕の傷痕を見ながらそう呟く“お姉ちゃん”の方に視線が向く。不安げな表情をする“お姉ちゃん”の胸に頬を擦りつけ、動物的な甘え方をする玲芽。
『くふふ、可愛いなぁ』
暗い表情をぱっと明るくして、腕から頭へと手を移動させる。
暴力と罵倒の日々から一転して、そんな温かい幸福が包み込む日々が始まった。
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