4 記憶の箱庭
24
視界が開けるより先に、ザク、ザクという音が聞こえてくる。
肉を切る様な、或いは肉を突き刺す様な。
視界が開けた時、その音の正体が『様な』ではなく正に肉を突き刺す音であった事が判る。
『フゥー……フゥー……!!』
荒い息遣いと共に、こちらへ向けて右手を上下させている人間が一人。
顔は、判らない。逆光のせいか、はたまたこの記憶の主人である玲芽がもう覚えていないのか。その顔は黒く塗りつぶされた様に闇が閉ざしている。
『何で……何でお前が産まれてきた! クソ……クソッ!!』
まともな言葉を喋って初めて、その影が女性である事が判る。
そして視界がずれ、床にぐったりと倒れた玲芽の身体が映し出される。
今よりずっと細く短い腕は、赤黒い血に塗れていた。今持っているフォークで空けられたのであろう穴が幾つもあり、そこから鮮やかな赤が流れ出ている。
流血の勢いは緩やかだ。傷が見た目よりも浅いからか、はたまたもう流れ出る血が足りていないのか。
刺し傷だけではなく、幾つか切り傷もある。床にこびりついた血に紛れてナイフも転がっている辺り、それで傷を開けられたのだろう。
『どうして私から……お前みたいな怪物が……産まれてくるんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
渾身の力を籠めて、女性は玲芽の顔に向けて血塗れのフォークを振り下ろす。
『うあ……』
壁の向こうの景色を見せる玲芽が、小さな声で呻く。痛みに叫ぶ気力もない事が窺えた。
「ひっ……」
その光景に、未梨が固めた決意を早々に折られる。壁から床に視線を切り替え、ふるふると肩を震わせる。
「何をしているんだ。お前が知りたいと言っていた事だ」
背後の玲芽が隣まで歩いて来て、未梨の肩を叩いて半ば無理矢理顔を前に向けさせる。
「この時は、確か……頬に突き刺さったっけ。どれだけ力を入れたんだろうな、口の中までフォークが貫通していたよ」
淡々とその時の記憶を語る玲芽。恐らく当時の彼には状況を伝えるための『言葉』という手段を知らないのであろう。
そう推測できる根拠は、玲芽に暴力を加えていた女性の言葉にある。
──私からお前が産まれてきた。
即ちあの女性は玲芽の産みの親だ。その親があんな扱いをしているのだ、まともな教育など施しているはずもない。
画面の向こうに母親はおらず、ただ無慈悲に白い光を照らす天井だけが在る。
ザッ──と画面にノイズが走り、再び黒い顔の母親が出現する。今度は手には何も持っておらず、その拳を以って幼い玲芽を何度も何度も殴りつけている。
『死ね……死ねっ!! 苦しんで……醜く泣き叫んで死ね!!』
拳を赤く染めながら、その女性は子に向けて親にあるまじき言葉を放つ。罵倒と殴打を受けている玲芽は、時に悲鳴を上げ時に無反応。だが一様に無抵抗のままそれ等を身体一つで受け続けている。
「どうして俺がこんな扱いを受けて生きているのか──それは俺にも判らない。魔力には持ち主の生命を留める効果があると聞くから、俺の有り余る魔力が辛うじて生き長らえさせていたのかも知れない。その分このクソみたいな日々が、長く続いてしまったがな」
語る玲芽の口調は相変わらず淡々としていた。だが一瞬だけ彼の方に視線を向けると、その左腕を強い力で押さえているのが判った。
『うぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!』
一際大きな悲鳴が聴覚を支配する。画面がぶわっと赤く染まる。鼻血が目に入ったのか、赤い視界は戻らないまま、痛みと出血のショックで悲鳴は断続的に聞こえてくる。
『痛い? 苦しい? 私はもっと苦しいのよ……痛いのよ!! 痛い思いをして産んだ子が、お前みたいなバケモノで……苦しいのよ!!!』
びち、ばち、ばき、べち。
人が人を殴る音と、我が子の心を苦しめる声だけが聞こえる。
暫く暴力が続き、休符の様な静寂を挟む。
『人間みたい姿で……生きるなぁぁぁぁ!!』
その言葉と共に一際大きな打撃音が響く。視界が赤から黒に変わり、意識の喪失が窺える。
「バケモノは、どっちだ……?」
玲芽の言葉に、微細な怒りの感情が見え隠れした。
またザッとノイズが走り、同じ部屋の光景が映し出される。
この映像は玲芽自身に強くこびりついた記憶は等速再生の様に長く映るようになっているのか、暴力の日々はスライドショーの様に早回しで過ぎていった。
『こんな価値のない生命がどうして産まれてきた』『死ね』『生きたくても生きられない人達に申し訳ないと思わないのか』『死ね』『死ね』『死んで鼠にでも喰われた方が役に立つ』『早く死ね』『殺してやりたい 殺してやりたい』『死ね』『でも私が苦しんだ分苦しめなくちゃ』『死ね』『死ね』『これは裁きなんだ』『正当な裁きだ』『死ね』『死ね』『死ね』『人間からバケモノが産まれてきていいはずがない』『死ね』『お前は産まれるべきじゃなかった』『人間が産まれるべき場所をお前が邪魔をした』『死ね』『死ね』『痛みに叫べ』『苦しみに悶えろ』『流れる血に恐れろ』『謝れ』『産まれてきてごめんなさいと謝れ』『自分が産まれるべきじゃなかったと自覚しろ』『死んで喰われて糞になれ』『汚い糞になってはじめて役に立つ』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
スライドされる暴力の日々と、玲芽の生命を否定する言葉の数々。
未梨はその罵倒に耳を塞ぎたくなるが、堪える。先程玲芽に諌められた通り、これは自分が知りたいと思った事だ。そこから逃げるわけにはいかない。
見慣れたノイズが走り、今度は等速の映像が流れる。
『そろそろ死にたくなった? 謝りたくなった? でも、まだ苦しんでもらうわよ』
死ね、と何千何万と吐き捨てておきながら、玲芽を苦しめるために残虐の限りを尽くす母親。いったい玲芽は、どれだけの苦痛を積み上げれば彼女に赦されるのだろうか。
『これ、何か判る? とーっても熱いのよ?』
嬉々とした声で右手に持ったアイロンを見せつける。轟々と蒸気を発するそれを、ゆっくりと玲芽の左腕に近付ける。
『うあぁぁぁ……ぁぁぁああああ!!』
一瞬画面がホワイトアウトし、再び同じ部屋が映し出される。あまりの熱に一瞬気が飛んだのだろう、浅く速い呼吸音が聞こえてくる。
『まだまだよ』
腕に始まり、脚、腹、胸と入念に熱い蹄鉄を押しつける。その度視界が跳ね上がり、ちぎれた叫び声が聞こえる。
痛みに喘ぐ我が子を苦しめ続ける女の姿が、少しずつ変化していく。
顔だけでなく全身が暗闇に覆われて、六本の腕に今まで使ってきた様々な器具を持つ。口元が裂けた様に頬の上まで吊り上がり、目は猟奇的に輝いている。
玲芽にとってのバケモノは、その女性だったのだろう。幼い玲芽には、女性が本当にこの怪物に見えていた事を察するのは容易い。
アイロンで視界の左半分を覆い隠される。同時に絞り出す様な悲鳴が微かに聞こえてくる。怪物の三本の左腕に身体を抑えつけられ、逃げる事ができない。
『思い知ったか私の苦しみを! 私の痛みを!!』
アイロンを離しギラギラと光目を近付けて、怪物は言葉を吐き捨てる。
耐え難い熱に灼かれてなお、左の視界はうっすらと光を写している。それが気に食わないのか、怪物が自分の指をその左目に突き刺す。
『ぅ……ぁああっ……!!』
傷だらけの身体で精一杯呻きながら、言葉を知らない玲芽は懸命に痛みを訴え続ける。それでも怪物が責苦を止める事はない。
『この目が憎らしいこの髪が疎ましい生きているのが鬱陶しい……お前の! 存在そのものが!! 私を苦しめるんだ!!!』
怪物は冷たい指を玲芽の左目に押し込み続け、その嘴の様に尖った大きな口で玲芽を責め続ける。
十分程度で怪物の手が玲芽の目から離れる。だが視界の半分は暗いまま。目が機能しなくなったのだろうか。
『クソ……クソ!! 生きるな! 死ね!! 死ね!! 死ねぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!』
そしていつもの様にナイフで腕や脚を斬り開き、突き刺す。
「子供一人殺せないのに、よく言うよな」
「…………」
飽くまで感情の籠っていない淡々とした姿勢を崩さない玲芽だったが、その声色はいつもより僅かに低く嫌悪や憎悪といった感情が窺える。
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