18
*
ぬるいシャワーを頭から浴びて、玲芽は今日の疲れを湯に溶かして排水溝へと落とそうとする。
天宮邸の地下は大きく三つの区域に分かれており、今玲芽はその区域の一つである訓練所にいる。
訓練所は広い体育館の様なスペースと一般のジムに近い器具を備えたトレーニングルーム、そして汗を流すためのシャワールームがある。
別区域に風呂があるので大半の者はそこを利用する。そのためシャワールームは基本的に賑わう事がなく、一人で身体の汗を落としたい時にはピッタリの空間だ。
(今日の俺は、どうかしている。それがここのルールとはいえ、憎んでいるはずの『人間』を護るなどと)
思い出すのは、楠瀬未梨の姿。
記憶の中の彼女は、いつも笑っている。
笑顔の中に含む意味に多少の差異はあれど、彼女はいつも笑っていた。
今日は怒った顔や悲しそうな顔も見たが、玲芽はそんな彼女を見る度に苛立ちを覚えてしまっていた。
(まるで俺が、あいつにいつも笑っていてほしいとでも思ってるみたいに)
そんな考えがふと思い浮かび、掻き消すためにレバーを捻ってシャワーの温度を上げる。
徐々に熱くなっていく湯が玲芽の頭から身体をつたい、彼の黒ずんだ左腕をなぞる。
肘を曲げてその腕を視界に入れる。顔の左側と同様に、少し歪に膨らんだ汚い暗緑が肌に浮かんでいる。
(これこそが、俺に『人間』達が侵した罪。これこそが、俺が『人間』を憎悪する確たる証)
左半身は自由に動かせない時期すらあった。懸命なリハビリによりある程度動かせるようにはなったが、未だに力を入れると軋む様な痛みが走る。
玲芽は痛みには強い。切り傷にも刺し傷にも、消毒液が沁みる痛みにも耐えられる。
だがこの軋みには如何ともし難い物を覚えてしまう。心をじくじくと刺し続ける様に持続し、身体を侵蝕していく様に巻きつく、怨念にも似た痛み。
「く……はっ」
痛みに悶え、膝を床につける。痛みに負けて力を抜いても、暫く身体は軋み続ける。
「何で、俺を…………」
耐え難い痛みに悶え、弱気になってしまう。痛苦の記憶がフラッシュバックして、息苦しくなって引っ掻き回す様に壁をなぞる。
「あ……は……! うわっ……と」
見上げたシャワーヘッドから熱いお湯が目に入り、ようやく正気に戻る。肩で息をして、脳に酸素を回す。
(俺は『人間』の手によってこうなってしまったんだ……。だから、俺はあいつ等を憎んでいる。そう、憎んでいるんだよ……!)
立ち上がり、長い髪を掻き上げる。シャワーの熱に叩き起こされた様に目を開き、精神を整え直す。
「よし……」
錐川玲芽は赤い瞳に暗闇を翳し、精神に暗い静寂を取り戻した。
*
「勇武くん、妙に口数少ないね?」
医務室から出て浴場へと移動する最中、甘音が勇武にそう声をかける。
「え、そうっすか?」
「九澄くん、クラスでは明るいけど意外と他の子の話よく聞いてますよ?」
甘音の指摘に、未梨がクラスでの様子を教える。
「そーなの? 内のチームだと喋る側に回らざるを得ないから、よく喋るってイメージがついちゃってるのかなあ」
「今の面子は無口な玲芽に、自由奔放な甘音だもん。まともな事喋るの勇武くらいじゃない?」
結璃がそう彼等のチームを分析する。甘音は少し不満げではあったが、奔放な自覚はあるのか口を挟まない。
「まあ、確かにそうせざるを得ないから喋るってのもあるんすけど……」
勇武は口元を結んで言い難そうに言葉尻を窄めるが、観念して正直な感想を漏らす。
「男女比的に……ですねぇ。ちょっと緊張しているっつーか?」
確かに、現状男性は勇武一人、女性は三人だ。それに彼女達は見目麗しい若き女性達だ。幾ら明るい九澄勇武と言えど、上がってしまう。未梨は自身を『可愛い』などと思った事はないので、頭上に疑問符を浮かべているが。
「緊張? 見慣れた仲なんだから今更じゃない?」
「だよねー」
結璃の意見に甘音が同意し、勇武の額をぺしっと小突く。
「するものはするんだから仕方ないじゃないっすか! もうちょっと自分達の可愛さを自覚してくださいよ!」
勇武は幼い顔立ちを赤く染めて、そう叫ぶ。
「うんうん。判るよ九澄くん」
何故か緊張する側に回った未梨が、腕を組んで頷いている。
「アンタもじゃいっ」
甘音が未梨の肩に軽くチョップを入れつつ、貴様も緊張される側だとツッコミを入れる。
「あ、ミノちゃん止まって。ここから下に行けるから」
と、そこで結璃が未梨の足を止める。何の変哲もない廊下のど真ん中から、どうやって下へ行くのだろうか。未梨は首を傾げる。
丁度玄関の反対側くらいの位置だろうか。などと考えていると、廊下の壁がずずっと横に開く。
「え、エレベーターですか?」
壁が開いた先には狭い直方体の空間。その形状からエレベーターを思い浮かべた未梨が、素直にそう質問する。
「そうよ。初見じゃ判らないでしょ」
「エレベーターを判り辛くする意味とはいったい……?」
エレベーターの位置が判り難い事を笑って言う結璃だが、それは誇っていい事ではないのでは? と未梨は口には出さずに考える。
「秘密にしたいものがあるから、一般のお客さんに見えないようにしてるのよ」
「はっ、秘密基地……!」
未梨は学校で甘音が言っていた事を思い出し、目をキラキラと輝かせる。
「そ、秘密基地。まあそれっぽい場所には、まだ行かないけどね」
「地下の秘密基地……地下の秘密の基地……」
そういった隠れ家的な場所には心を踊らされる。浪漫と言うのだろうか、未梨にはどこか少年的な感性がある。
エレベーターが止まり、ドアが開く。
その先は美しい屋敷の風景とは打って変わって、どこか冷んやりとした赴きだった。
黒灰色の硬質な壁や天井。床の両端に埋め込まれた間接照明の数々。その狭さや薄暗さから、未梨はそこはかとない『秘密感』を全身に吸い込む。
「ふおお……豪邸天宮屋敷の地下、隠された秘密の廊下の先には──!?」
高まるテンションに身を任せ、心の中から勝手に浮かび上がってくる言葉を発する未梨。
「楠瀬ちゃんって、ふわっとしてるけど聡明な子ってイメージだったんだけど、意外とアホっぽいよね」
「判ります……俺もさっきまでは同じイメージだったんすよね」
そんな彼女に、後ろを歩く学生二人は思い思いに感想を呟く。二人の言葉を耳にした未梨が、恥ずかしそうに頬を赤らめる。テンションを上げ過ぎた自覚が遅れてやってきたようだ。
「ま、家の人間としては楽しんでもらえて良い気分よ」
未梨の隣を歩く結璃が、彼女の琥珀色の髪をポンポンと叩く。
十字路を左に向かい、四人は薄暗い廊下を抜ける。
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