2 ここではないどこかから、今ではないいつかから
6
未梨は渡り廊下で立ち止まり、ガラス窓に玲芽の顔を映し出す。
北校舎の図書室付近にはトイレがない。なので渡り廊下を通過して南校舎に入ったところにあるトイレまで行く必要があった。
(錐川くん、すっごい怖い顔してたな。いつも不機嫌そうだけど、怒った顔は初めて見たな)
入学して一ヶ月程度。未梨が玲芽と話すようになったのは入学してそう経たない頃だった。
その程度の時間で、友人とも呼べない間柄の人間の事を知るのは難しい。しかも相手は他者と距離を置きたがる錐川玲芽。未梨には判らない事だらけだ。
だがしかし、未梨は彼の性格で一つだけ確信していた事があった。
──それは玲芽が、心根に深い優しさを持っているという事。
そう思うようになった切欠はあるのだが、未梨は先程の出来事で疑念を抱いてしまう。
魔術の素養のない者、つまり魔核の小さい者を『人間』と呼び自らを人間よりも優れた存在だと自称した。
(どうしてそんなふうに考えてるんだろう……。何かあったのかな?)
先程は口論になったが、今の未梨には彼に対する怒りは存在しない。何故なら彼女には、その時の玲芽の目があまりにも弱々しく感じられたからだ。
怒声を上げた直後は鋭い視線をこちらに向けていたが、未梨が反抗した途端に迷いを見せていた。
それは恐らく、自分が振り翳した論に疑いを持っているからだ。小突いた程度で崩れ去る、砂の城の様な論理。それを主張しなければならない理由が、玲芽にはあったのだろうか。
(錐川くんは、特別。特別だから、きっと私には想像もできない様な事を経験してきたのかな)
玲芽が見せた憤怒と迷いの表情。どんな事があって、他人と仲良くするという話題でそんな顔をするような人間性を形成したのか。
未梨には判らない。考えはしたが、元々頭は良くない。
そう割り切って南校舎まで歩き、ふと思い出して下り階段の方を見る。
つい先程の話だ。ぼーっと歩いて図書室までの道を間違えた時、玲芽は未梨を諌めつつ階段から転げ落ちないように支えてくれた。
少し顔に熱が昇る。あの時は玲芽の口元がいつもより近く、彼の声をより耳に近い距離で聞いたのだ。
(やっぱり、錐川くんは優しい。ちゃんと考えて、私の事も気遣ってくれるんだもん)
未梨は実体験からそう確信する。確かにあの時の彼には、他者を慮り適切な行動をする優しさがあった。
(よし! 早く戻って、私から謝っちゃおう。錐川くんと仲が悪くなるの、嫌だもんね。うんうん)
未梨は右手をグッと握り、玲芽との関係を修正する事を決心する。そうと決まれば、と身を翻して用を足そうとトイレへ向かう。
「あ、れ?」
(何でこんなに、静かなんだろう?)
そこで気付く。校舎内の異様な静けさに。
未梨の立てる物音や声以外には殆ど音がなく、しんと静まり返った校舎はどこか寒々しさすら感じさせる。
放課後とはいえまだ陽が落ちたわけでもない。部活動に勤しむ生徒達や教師がそれなりの音を出してもおかしくない──寧ろ賑わっていた方が自然なのだが、まるで世界に彼女以外がいなくなってしまったかの様に静かだ。
その不気味なまでの無音に一つ身震いをして、未梨は今すぐにでも図書室に戻ろうかとさえ考える。だが彼女の忍耐力には限りがある。決して限界が来ているわけではないが、ここから一時間以上耐えろと言われると辛い。
(一度戻って錐川くんについて来てもらう……いやいや、それは恥ずかし過ぎるよ!)
あれこれ考えるが、結局はささっと済ませて戻るという行動を選択する。
そうと決まれば善は急げと、トイレのドアに手をかける。が、そこで未梨の動きは止まる。
先程まで無音だったこの場所に、何か水滴が落ちるような音が響いたのだ。
一瞬トイレの蛇口から水が落ちているのかと思ったが、それにしては低く重い。水道から落ちる水滴とは比にならない、大きな水の粒が落ちたような音だった。
背を刺されたかの様な緊張感に、ぶるっと悪寒が未梨の身体に立ち昇る。
(下の方から……?)
振り向いて、一歩、二歩。
数十秒前に見た下り階段を恐る恐る覗いて、誰もいない事を確かめる。音は階下から聞こえたが、念のため上り階段の方も見る。何もない。
「はふ……」
全身を走る緊張に息遣いが変になる。
胸を抑え、何もなかったから自分の空耳か何かだろうと懸命に言い聞かせる。が、彼女の中で理性的な思考でない何かが警鐘を鳴らす。
ここから逃げよう、ここから出ようと叫ぶ何かを必死に抑え、心を落ち着けようと躍起になる。
(全部気のせい全部気のせい私の思い込みが激しいだけ怖い事なんて起きない絶対大丈夫ただ静かな学校がちょっと怖いだけ何もない何もない……)
未梨が自分の不安を抑圧しようとしていると、不意に後頭部を圧迫する様な感覚が襲いかかる。
強烈な『見られている』感覚。ガンガンと頭蓋骨を貫いて脳を視線で射抜かれる様な、瞳の銃弾。そして。
(音が……する)
先程聞いた、水の落ちる音。ボタンと重い液体が床に落ち、しゅうううと気化していく音も耳へ入ってくる。
振り向こうとするが、首から下が石になったみたいに硬直する。少しの混乱はあるが、頭は働く。動け動けと命令しても、肝心の脚が言う事を聞かない。
何とか首だけ動かして、視線の正体を見ようとする。
「ひやっ……!」
未梨を見据えていたのは、彼女の知識にはない生物だった。
シルエットは人間と変わらないが、二メートルを超える体躯。ゴツゴツとした胴体や手足には、何十と数える程の目と口。白い肌に口から垂れた粘っこい液体を這わせ、表情はないはずなのに覗く牙が笑っている様にも見える。
ガクン、と膝が落ちて倒れそうになるところを、太い腕に持ち上げられる。腹に回された腕を引き剥がそうとするが、震えて上手く力が入らない上に濡れた腕はしっかりとは掴めない。
『シャアアアアアアアアア……』
耳元で風が吹く様な、或いはせせら嗤う様な声がする。
「ひゃう……」
酷く冷たい空気が未梨の右耳を撫で、その瘴気に喘ぎ悶える。少しでも離れようと上半身を寝かせるも、異形は残ったもう一本の腕で未梨の口を塞ぎ、自分の方に引き寄せる。
(やだ! やだぁ! どうしてこんな……嫌だよぉ!)
持ち上げられて足が浮く。未梨は自棄になって手足をバタバタと動かして抵抗を試みる。
「んっ……くぅ……」
異形の掌に空いた口から液体が口内に侵入する。冷たく、異臭が口の中で暴れる。
顔中を覆うような大きな手を引き剥がそうとして、両脚で蹴り上げて腹に回った腕を離そうとする。
(何、で……力が……)
その抵抗は数秒で終わってしまう。手足は未梨の命令を無視して脱力してしまう。身体が一度ブルッと震えて、思考も脳が溶けていく様に中断させられる。
タイツとスカートにある濡れた感覚だけが未梨を支配する。異形が放つ液体がへばりついたのだろうか。
視界がぼやけてあやふやになる。どんどん暗くなっていき、否応なしに『終わり』を感じさせられる。
(あ、れ……きりかわ、くん……?)
未梨が目を閉ざす寸前。
渡り廊下を駆け抜ける、錐川玲芽の姿が見えたのは、彼女が見た幻覚だったのだろうか──?
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