目の前に広げられた紙には、色鮮やかな背景と一人の少年の絵。そして殆どが平仮名で構成された文字の列。

 自分が持っているわけではない。自分が読んでいるわけでもない。自分はただ──‬その温もりの中で聞いているだけだ。


『はるくんははるがだいすきです。あざやかなけしき、あたたかいかぜ。それになにより、じぶんとおなじなまえだからです』


 か細いが、慈愛に満ちた女性の声。自分を膝の上に乗せ、頰を少しだけ頭に触れさせて、そこに綴られた物語を読む。


『はるくんはなつがとてもきらいです。せみをつかまえるのはすきだけど、しゅくだいがいーっぱいあるし、そとであそぶとおはだがヒリヒリするし、なによりつぎのはるまでとてもながいあいだ、またなきゃいけないからです』


 本の内容も自分は楽しんでいたのだろう。だが何よりその時自分が酔いしれていたのは、その女性を感じる要素に他ならない。


『はるくんはあきがすきです。いろはちがうけどあざやかなけしき、あたたかではないけどすずしいかぜ。それになにより、ともだちのあきちゃんとおなじなまえだからです』


 物語を紡ぐ優しげな声。髪から香る淡いシャンプーの匂い。僅かに触れる肌の温もり。


『はるくんはふゆがきらいです。さむくてそとにでられないし、くらいそらはとてもさびしいきもちになってしまうからです』


 その辺りで視界に黒が差す。温かさと優しさが包み込む空間に、うとうとと船を漕ぎ始めたのだろう。


 その時の気持ちを一言で表すなら、そう。


 紛れもなく自分は──‬──‬




 カラカラ、というキャスターの転がる音で目を覚ます。机に寝かせた胸を起こし、玲芽は首を動かさずにドアの方を見る。


「あ、ごめん錐川くん。起こしちゃった?」


 入ってきたのは未梨だった。その言葉を聞き流して時計を見ると、まだ授業が終わる時間ではない。


「私体育見学だったから、早めに戻ってきたんだ」


 玲芽が訊いてもいないのに、未梨は自分だけが早めに教室へ戻ってきた理由を語る。秒針と未梨が教室を歩く音だけが支配する室内で、不意に未梨が「えっ!?」という驚愕の声で空間を貫く。


「なんだ……?」


 突然の大声に肩を上げて驚いた玲芽は、低い声に幾ばくかの怒りを混ぜてそう問いかける。


「錐川くん、どこか怪我したの? 身体が痛いとか?」


 未梨が屈んで玲芽の顔を見上げながらそう訊いてくる。問いただしたのは自分なのにそんな事を訊いてくる彼女に、玲芽は少し混乱しながら目を細めて睨む。


「は? いや何なんだよ」

「だって錐川くん、今にも泣きそうだよ?」

「──‬ッ」


 言われて気付く。

 自分の目尻に、極微量ながらも涙液が溜まっている。

 それを右手で拭い、玲芽は首を振ったり頬を叩いたりして必死に平静を装う。その行動にもう慌てぶりが見て取れる。


「保健室、行く? 何か薬とか要るなら貰ってくるよ?」


 玲芽が身体に異常を来していると勘違いしたままの未梨は、心配そうに顔を覗いてそう捲し立てる。


「いや、大丈夫だ。構わない」


 言って玲芽は未梨から目を離し、窓の方に顔を向ける。その様子に未梨は「そう?」とだけ言って、自分の席に座る。


(何で、何で今になってあの日々の夢を見るんだ)


 玲芽は歯を噛み、窓の外を眺めながらそう考える。

 彼が見た夢は、玲芽の記憶にある出来事。ここ最近になってよく見るようになったものだ。

 彼の中にある数少ない、幼く穏やかな日々の事。何故それが夢となって沸々と蘇る様に玲芽の眠りを妨げるのか。


(思い出させてくれているのか……俺が『奪われた』という事を)


 そして玲芽は、そんな答に辿り着く。出口の見えない──‬あるかどうかも判らない思考の迷宮を、無理矢理突き破る様にして完結させる。


(沸き立たせてくれているんだ……俺のこの、復讐心を)


 玲芽の心で燃えていた黒い炎が、ゆらりと一層大きくなり彼の心を焼く。

 授業終了のチャイムが鳴り、体育終わりの生徒達が教室に入ってくる。

 既にいつも通りの表情になっていた玲芽は、いつも通り黙したまま、人の増えた室内を不機嫌そうに眺めていた。

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