遠景としての火事
アー
断章
その集落には御火様(おひさま)と呼ばれる火がある。火は村の象徴であり、村民たちの拠り所であった。御火様はそもそも、昔々に痩せた谷間のこの土地に入植した若夫婦の、夜通しの開墾を照らし続けた松明の火であって、さらには夫婦の子供がその明かりを勉学の友として書物を読み、算術を解き、見事な高士に成長したというような言い伝えがトーキョーウォーカーあたりで特集されてからというもの、御火様は村唯一の観光資源になったのである。連日連夜、都会からただの火を見るためだけに大勢の人々が小さな村に押し寄せ、「ほほお」とか「なるほど」というわかったような顔で湿っぽい感想を口々に発し、村の不味い地酒を飲んで帰っていくのである。
或日、集落を烈々たる旋風が直撃した。豪雨と突風で屋根は吹き飛び、電信柱は無残にも寝転んだ。避難所としてあてがわれたのはもう使われていない素朴な公民館である。人々は家から持ち出した、位牌やら書物やらアルバムやらを抱きしめながら公民館へと集まり、えらいことになっただなとか言いながら、じっとこの旋風が通り過ぎるのを待っていた。
幾人かの男たちがずぶ濡れになりながら、自らの体躯を傘にして御火様を守りながら公民館に転げ込んできた。火の番を任されている風呂田一郎という男が誇らしげな表情で村人たちに言った。
「俺らが御火様、守ったきに。なぁお前ら!」
怒号にも似た男たちの勝鬨が公民館にこだまする。御火様が無事だったことに、村人たちも安堵の表情を浮かべた。ひとりの老婆がすっくと立ち上がり、御火様に近寄る。数珠を持ち直して拝もうとした刹那、老婆は自転車のサドルの軋む音のような小さな悲鳴をあげた。
「やい婆婆どしたい?」
「御火様の火が、消えそうじゃ……!」
一斉に御火様を取り囲む村人。明らかに自分たちが守り続けてきた盛大な火力を誇る火は鳴りを潜め、今はただ火種がちょろりと最期の力を振り絞っているようにも見える。あかんではないか。
息で消えてしまうかもしれないと誰かが言った。一斉に御火様からの距離を確保する村人たちの素早い動きで逆に火種がゆらっとする。緊張が走る公民館。火を消すわけにはいかないのである。
「なにかを焚べねば、なんねぇべ」
サドルの軋む音のような悲鳴をあげた老婆が言った。なにかを焚べねば。なにかを焚べねば。なにか焚べるもんはねぇか。焚べる焚べると騒ぐ集落の者たち。しかしここは避難してきた空っぽの公民館である。燃えそうなものが見当たるわけもない。
「やい兵助」
風呂田一郎が公民館の隅でどれだけ長い時間息を止めていられるかという遊びをひとりでやっている床屋の大木戸兵助に声を掛ける。
「なんだい、いちろうさ」
「おめ、その女みてえな
うんともすんとも言わない床屋から
「やい光男」
兵助が、昔テレビジョンに出たことがある光男に声を掛ける。
「なんだい、へいさのへいすけ」
「おめ、その賞状、焚べろや」
びっくり人間コンテストの特別賞をもらった時の大事な大事な賞状が、ただの灰になった。しかしまだ御火様は燃えたぎらない。
「やい房代、その本、焚べろや」
「やい美子、その手紙、焚べろや」
「やい土佐次郎、そのアルバム、焚べろや」
「やい喜蔵、その子供が書いた絵、焚べろや」
「やい富江、その婆様、焚べろや」
村人が命辛辛運び出した物はすべて焚べられてしまったが、御火様が柱を立てながら燃え盛る姿は二度と見ることができなくなっていた。大切な物とは一体何なのだろうか。命を賭してでも死守し続けた存在に何の価値があったのだろうか。自己犠牲的な行いが小さな公民館の中で巻き起こり、結局いまこうして、自身の御宝と引き換えに小さな火種へと成り下がった御火様をじっと眺めることしか出来ていないではないか。火はあっさり消えた。
遠景としての火事 アー @alikick
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