第229話 大雨

 降り注ぐ恵みは、時として取り返しの付かない大きな厄災へと変わる。

 暗く重い雲が空を覆う。地表へと降り注ぐ雨は、未だに止む気配が無かった。


 連日降り続く雨は、本日で既に五日続いていることになる。梅雨の時期でも無いのに全く降り止まない雨の原因は、停滞している前線のせいだろう。

 通常ならば毎日、天候は変わっていく。気圧の変化に合わせて少しずつ前線は移動していくはずなのに、何故か今回は気圧の配置に変化が起こっていない。こんなことはあり得ないと専門家は頭を抱え、天気予報士も毎日のニュース番組で動揺を隠せない様子だが、何故かこの頑固な前線は、日本列島にかかったままずっとその場に居座り続けていた。

 こんなんだから今日もまた、窓の外では大粒の雨が地表に向かい細かい線を大量に描いている。

「はぁ」

 五日前までは嘘みたいに綺麗な青空が広がっていたはずだ。それは間違い無い話で、しっかりと記憶もあるし、記録もある。

 ただ、その快晴も手放しに喜べる状態では無かったという事だけは付け加えておこう。

 ここ数十年の間に年々、雨量が減ってきているのは気が付いては居た。それは年単位で計測されている統計データを見れば明らかな事で、その上、最近では体感としてもはっきり知覚できるレベルの異常気象が続いているのだから、勘違いと言う言葉では誤魔化すことが出来ない。そんな状況なのである。

 単純に日照りが数日間続くだけならば、ダムの貯水率に注視しておけば何とか乗り切ることも可能だろう。

 だが、そこに貯める水が圧倒的に足りていない状況での干魃が続くとなると、状況は予想以上に切迫してくる。

 技術の進歩で精度の上がる観測装置により、気まぐれな気象の動きをある程度捕まえることが可能にはなったが、それでも天気は人の思い通りに動かす事が出来ない自然現象の一つ。人口的に雨雲を大量に作る事が出来なければ、降水量を増やすことは難しいだろう。

 とは言え、雨雲を作るための水が既に不足しているのだから、こうなってくると神頼みをする以外、人間に出来る事は無くなってしまっていた。


「雨乞いの儀式をしよう」


 そんなことを始めに言い始めたのは誰だったのだろう。


「雨乞いだなんてそんな時代遅れなことで、本当に雨なんて降るのかよ」


 その疑問はもっともだと、思わず首を縦に振ったのは記憶に新しい。


「じゃあ、一体どうすれば良いのよ!」


 その答えが分からないんだから、そうするしかないじゃない! ヒステリックな叫び声を上げた後で聞こえる啜り泣き。


「それを、今からみんなで考えるんだろう?」


 耳障りな雑音を宥めるようにうわずった声がそう答える。

 しん……と静まりかえる室内。


「……やっぱり」


 誰かが重たい口を開く。


「ダメ元で儀式……やってみないか……?」


 二度目の提案を否定する声は上がらない。

 もしかしたら、それをする事で問題が解決するのならば、その方が都合が良い。そんな甘い考えが、何処かにあったからかもしれない。

 そうやって、追い込まれた憐れな人間達は、信じもしていない神に向かって「雨乞い」をする事を決めたのだった。


 この地域で雨乞いをするのは、実に数百年ぶりになる。

 上下水道の整備が整ったことにより、滅多なことが無い限り干魃の被害に悩まされることが無くなった結果、失われてしまった昔ながらの儀式。残念ながら儀式の詳細を覚えて居る者は殆ど居らず、昔から此処で生活している年寄りの記憶も朧気で。残った年長者への聞き取りと、郷土資料館に遺されていた僅かな文献。それと、大学教授が聞き取りを行った際にまとめた様々な資料が頼みの綱。記録されていた録画情報が残されていたのは幸いだったが、当時のカメラは映像が不鮮明で、ノイズが酷く音も割れている。素人が撮影したということもあり、カメラアングルも最悪だった。

 八ミリのビデオデッキを引っ張り出し、何度もテープを止めながら確認していく地道な作業。文字の情報と映像を照らし合わせながら、儀式の手順を拾い集めていく。そうやって漸くまとめた一冊の手順書はたった四枚の薄っぺらいレポートで、それを儀式に参加する人数分複製し互いに情報を共有していく。

 儀式を行うのは主に儀式をする場所を管理している地主と役場の人間が数人、それと神職に就いている人間だ。その他の殆どは野次馬で、普段とは異なる雰囲気に興味本位で集まったという感じである。

 儀式を行う場所はと言うと地元では有名な池。

 随分と昔から在るこの場所は、どんな日照りでも全く枯れることが無い池として有名だった。

 それならばこの池を拡張し水路を整備すれば良いのでは無いかと思ったりもするが、権利や地盤の問題に加えてそれが出来ない理由がどうやらあるらしい。興味本位で聞いてみると、どうもこの池に手を加えようとすると、必ず悪い事が起こるらしい。

 池の幅はとても小さく、人が数人飛び込めば直ぐにいっぱいになってしまう程度。そんな狭い池なのに、その中央には深い穴が空いており、そこに近付くと池の中に引きずり込まれるという噂もあった。

 それが本当の事なのかを確かめた事は残念ながら無い。

 何故なら、その水は酷く濁り、池の中がどうなっているのかを確認する事が不可能だから。

 ただ、不思議な事があるとするならば、その噂を証明するように数年に一度、この池の付近で神隠しが起こっていることは誰もが周知していた事実でもある。


 儀式は思っている以上に厳かに進められていった。

 場を支配するのは重苦しい空気だ。日が完全に落ちてしまっているため、焚いた火の明かりが不気味に揺れている。風に吹かれることで擦れて音を立てるしめ縄と、辺りに鳴り響く耳障りな鈴の音。そこに加わる祝詞は、普段神社で耳にしているようなものでは無い奇妙な旋律の言葉が連なっている。

 儀式が進むにつれ段々と、その場に居る人々の目が虚ろなものへと変わる。トランス状態に入った神主が鈴を鳴らす度、彼らはゆらりゆらりと左右に揺れ虚空を見つめるのだ。

 それはまるで集団で催眠に掛かったような状態に近く、傍目から見ると非常に不気味に見え恐ろしい。

 そして一際高い音を立てて鈴が天を突き刺すように振り上げられると、場を満たしていた重苦しい空気が一瞬にして切り裂かれ霧散したのだった。

 その音により正気に戻る人々。辺りに響くのは、儀式を行っていた神主の上げる荒い呼吸音である。

「……終わった……のか……?」

 真っ先に口を開いたのは町長である。

「え…………ええ」

 それに答えるのは儀式を終えたばかりの神主だ。

「これで……本当に、雨が降るのだろうか」

 頭上に広がる空に浮かぶのは大きな金色の月。それに呼応するように煌めく無数の星は、遮るような雲もなく楽しそうに輝いている。

「気休めにしか過ぎないかも知れませんけどね」

 こんな儀式ごときで本当に雨が降るのだろうか。

 それはこの場にいる全ての者が漠然と抱えていた疑問だろう。

 だからこそ「気休め」という言葉で濁し、どちらの結果になっても言いように答えを曖昧なものにしておく必要がある。

「取りあえず……帰るか」

「ええ」

 終わってしまえば虚しさが残る。雨の降るメカニズムが科学的に解明されている以上、偶像に天候を変えて欲しいと願う事は実に非科学的で効率が悪い。その後は誰も言葉を発すること無く、後片付けを手早く済ませ場を離れていく。先程まで異様な光景に包まれていた池の周りは、いつも通り静かなものへと変わり夜が更けていった。


 翌日になると薄曇りの空から、ぽつり、ぽつりと雫が落ち始めた。

 やがてそれは大粒の雨となり、地表へと容赦なく降り注いでいく。

 始めの頃はそれを恵みの雨だと喜んだが、一日、二日と雨が続くと、段々と人々の顔に不安の色が浮かび始める。

 大量に降り注ぐ水により増水していく河川。緩くなった地盤はいつ地滑りが起こるか分からず、これから起こりうる災害に対して避難勧告が早い内に出され、指定された避難所は人の姿で溢れかえった。

「はぁ」

 学校は三日目で出された避難勧告により臨時休校。あと何日此処に居れば家に帰れるのか分からない状態に、避難者の疲労が重なっていく。


「人間って本当に我が儘」


 誰にも聞かれないように呟いたのは小さな愚痴だ。

 雨乞いの儀式がもたらしたものは、確かに神の恩恵もあったのかも知れない。

 だが、あの儀式を行ったとき、本当は何があったのか。それを知るのは極一握りの人間しか居ないはずだ。

 小さな池の中心にある一つの噂話。

 あの日以来、町から一人、人間が消えたていたことに一体何人の住人が気が付くのだろう。

 投げ込まれたのは恵みを得るためにと差し出された誰かの命。

 そしてそれは、水の流れに呑まれて沈み、この世界から消えてしまった。


「あんなことしなくても、池を綺麗にしてくれればそれだけで良かったのに」


 降り続く雨は捧げた生贄の命に歓喜した神がもたらした恵みなどでは無い。

「あそこはゴミ捨て場なんかじゃ無いんだよ」

 神経を逆なでる耳障りな雑音も、ありがた迷惑で如何にもな儀式も。所詮は人が神から施しを受けるために勝手に決めた都合の良い習わしにしか過ぎない。それに加えて頼みもしないのに差し出された命は、結局救うことも出来ずに向こう側へと堕ちてしまった。

「ただ、水を……綺麗にしてくれればそれだけで……」

 雨に遭わせて轟く轟音。直ぐに稲光が走り近くに爆音を響かせて雷が落ちる。

 送れて伝わる振動は、更にこの場で震える人々の不安を煽るのだろう。


「はぁ」


 降り続く雨が止む気配は未だ無い。

 神様はまだ、怒りを鎮めるつもりは無いようだ。

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