第213話 ボードゲーム
対峙した相手が見せる些細な表情の変化。
対局は常に上手く立ち回るための戦術と先を読む心理戦。
相手が打つ一手に直ぐに立て直す戦略は、幾つものパターンを集積し最も良い結果をもたらすためだけに繰り返すシミュレーションの連続。
だが結局、最後に勝敗を左右するものは時の運を掴み取る力、なのかもしれない。
「あなたはどうして、そうしようと思ったのですか?」
盤上に乗せられているのは研磨された白と黒の石だ。
「その質問に答える必要はありますか?」
美しくすらりとした手が白い碁石を取ると、乾いた音を立てて盤の上に打っていく。
「答えなければならないと言うことはありませんが、だからと言ってそれを行ってしまった事は肯定できません」
周りには、僕達と同じ様に黙々と囲碁を打ち続ける人の姿。それぞれが真剣な眼差しで碁盤を見つめ、相手の戦術を読みながら勝利を掴もうと思考を巡らせている。
「あなたほどの人がどうしてという疑問が、僕の中で拭えないのです」
乗せられた白い石は攻撃的に攻める一手。それに対して常に守りの姿勢でのらりくらりと逃げ続けている僕は、実にやりにくい相手なのだろう。先程から相手の戦術に迷いが多い事は、大分前から気が付いてはいた。
「私はあなたが思う程、出来た人間ではありませんので」
早く勝負を終わらせてしまいたい。そんな焦りが碁盤から感じられる。
「そんなことはありません」
それでも僕は、彼の気持ちに応えること無く、ただひたすらに逃げ続ける。勝負の勝敗が決まることを避けるように。
「僕にとってあなたは、とても特別な存在です」
そこに置いた黒い石は、相手に取られることを想定し誘導をかけたものだ。
「あなたと出会わなければ僕は今、こうして自分の意志で動く事は出来なかったのですから」
案の定、気持ちの焦りから彼はこちらの想定していた場所へと白い石を打つ。
「私と出会わなくても、君は立派に生きて行けたはずですよ」
無意識の謙遜。それは多分、これ以上踏み込むなと言う警告なのだろう。
「そんなことはありません。僕はあなたに出会えたことに感謝しているんです」
取られてしまった石に未練は無い。彼の綺麗な手の動きを追いかけながら、僕は次の手を考える。
「あなたと出会ったとき、僕はとても悩んでいました」
碁笥の中から取りだした黒い石。今度はこちらにと読まれやすい手を敢えて選ぶ事で、僕は更に勝負を引き延ばしていく。
「あの時は僕にとって、大きな変化が起こった時だったんです。僕が思っていた当たり前の事が本当は何処までも脆く曖昧なもので、そのことについて何もかもが信じられなくなり自暴自棄になってしまっていた。それほどにまで自分自身を追い込んで、前が見えなくなってしまっている状態だったんですよ」
小さな音を立てて盤の上を埋めていく白と黒。少しずつ消えていく黒い色に本来ならば焦りを感じるはずだが、僕の目的は石を取られることでも、この勝負に勝つことでも無い。
「そんな時に先輩。あなたと出会った。あなたが僕に手を差し伸べてくれたとき、どれだけ救われたのか分かりますか?」
だからこそ冷静に。相手が動きやすいようにほんの僅かな隙を見せながら、戦局の舵を取るべく巧妙に動いていく。相手はいつ気が付くのだろう。否。もしかしたら気が付かないのかも知れない。考えて打つ戦略が、実はこちらの仕組んだ通りのシナリオだということに気が付けば、きっと彼は嫌な顔をし勝負を止め、席を立ってしまうに違い無い。
気が付いて欲しい。だが、気が付いて欲しくない。
そんなスリルを感じながら、ただ、淡々と勝負を続けていく。
「私は君を助けたつもりは無いよ」
黒を追い込むようにして攻める白い石。
「あなたにその気が無くとも、私にとってはとても助けられたんです」
手が届きそうになると逃げるのは黒い石。
「それは君が勝手にそう思っていることだろう?」
深追いをすれば逃げられなくなる。
もし、彼が冷静であれば。そのことに直ぐに気が付いただろう。
「そのことについては、否定出来ません」
碁笥から無くなっていく黒い石が、白い石と共に己の手元に戻ってくる可能性は極端に低い。相手に華を持たせるために敢えて選ぶ負け戦。この勝負が終われば、彼は席を立ちこの店から姿を消してしまう。
「それでも、僕が受けたと感じている恩を返したいという気持ちだけは、否定して欲しくありません」
残された時間はあと僅かになってしまった。それが分かったからだろう。彼は一度対局の手を止めると、椅子に深く座り直しゆっくりと息を吐き出した。
「恩なんて返せと一言も言っていない」
「そうですね」
もう、逃げられないぞ。
置かれた白い石が断ち切った退路。
「勝負、あったな」
これで終わりだ。そう言って彼は荷物を手に取ると、立ち上がるべく椅子から腰を浮かせた。
「まだですよ。先輩」
囲碁という盤上での勝負は確かに勝敗が付いた。だが、最後の石は僕の手の中に残されたままだ。
「あなたが全て背負うことはありません」
離れていこうとする彼の手を引き留め、高い白の比率で埋め尽くされた盤上の中心に静かに下ろす一つの黒。
「あなたが辛いと思うのならば、僕があなたに手を貸します。だから僕を頼って下さい。僕を利用して下さいよ、先輩」
たった一つの黒い色。白の中心に在るそれが、とても異質にその目に映る。
「…………それでも、私は…………」
「良いんです。何も言わなくても」
言葉は要らない。だから今は、頷くか首を振るかで答えて欲しい。そう目で訴えれば、先輩は悔しそうに表情を歪めた後、力なく椅子に座り込み唇を噛んだ。
暫くすると耳に届いたのは小さな嗚咽。溜め込んでいた感情が溢れ出したのだろうか。彼の胸元がうっすらと濡れている。
「もう大丈夫ですよ」
いつの間にか強く掴んでいた腕を離すと、僕は出来るだけ優しく彼にこう伝えた。
「最後の一手は僕が打ちます。なので、もう止めましょう? 先輩」
その言葉に彼は小さく頷くと、「よろしく……頼む」とだけ答えたのだった。
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