第205話 ジャンプ

 思い切り腰を屈めて、身体のバネを最大限に活かし一気に跳ね上がる。

 大きく手を広げて空に届くように宙に投げ出された身体は、一瞬だけ。空と同化する自由を手に入れた気がした。


 いつからか、目の前に広がる青空に触れてみたいと思うようになった。

 実際はそれに触れることは出来ないと理解していても、手を伸ばせばその青に触れるような気がして何度も何度も空に手を伸ばす。

 残念ながら掴めるのは空気だけで何の感触も得られなかったが、それでもいつか、頭上に広がる青に触れる事が出来るのだと信じたかった。

 実際には数字にすると途轍もない桁の距離。だが、目が捉える美しい色はとても近い距離に有るような気がして表情が緩む。

 空が見せる表情の中で一番青が好きな私に取って、それを眺めるのはとても楽しく嬉しいことだった。

 そんな私のお気に入りの場所は、住んでいた団地の屋上である。

 危ないからという理由で鍵を掛けるようにルールは設けられていたものの、そこをたむろに時間を潰すような人間が居る限りそのルールは余り役に立っていない。

 バレないように壊された鍵はダミー用の南京錠で一見すると施錠されているように偽装だれているものの、知っている人間ならこれが簡単に外れることは理解している。私もその中の一人で、立ち入り禁止だと言われていても、こっそりそこに忍び込む癖は直らなかった。


 殺風景な屋上は隠されるように置かれた空き缶とゴミになったパンの袋。空き缶の中には水が入っており、その中に煙草の吸い殻が捨てられているところからそれを灰皿代わりに使っていることが分かる。

 壁の一部にはスプレー缶で落書きがされているが何を表現したいのかまでは分からない。

 なるべくそのエリアは避けるようにして広い場所に座ると、ただぼんやりと頭上に広がる空を眺める。この時間なら誰も来ない。この場所は私だけの特別な場所になる。

 だから安心して瞼を閉じ、空と同化するという空想に耽る事が出来るのだ。

 閉ざされた瞼に実際にその光景が映るわけでは無いが、頭の中にある映像では、青の中でゆっくりと流れていく白い雲。頬をなぞる風の方向にそって、綿菓子みたいに柔らかなシルエットが少しずつ移動していく。

 それが太陽を遮ると少しだけ感じる肌寒さ。落とされた影により濃度の変わる黒が日に焼けた肌に少しだけ心地良い。

 いつの間にか忍び寄る微睡み。気が付けば、小さな寝息を立て意識を手放していた。


 夢の中では、私は自由に空を飛んでいたように思う。

 ふわりふわりと宙を舞う身体は重力を忘れたように自由に動き、足の裏に触れているはずの地面の固さは感じられない。いつも憧れていた空はより近い場所に、普段しがみついている地面は何処までも遠い場所に在り、逆転した感覚に戸惑いはするが自由を手に入れたようで楽しくて仕方ない。

 大きく両手を広げて風を受ければ、まるで翼を広げた鳥のように羽を得た気分が味わえ不思議な感覚に陥った。


 コレが夢だということは分かっていても、そんなことはどうでも良い。

 この瞬間が永遠になればと願いながら、私は何処までも青の中を飛び続けていたように思う。


 だが、夢はいつだって終わりの時が訪れるものだ。

 肌に触れた冷たさに強制的に引き戻された現実では、黒い雲が青空を遮り雨が降り始めていた。

 慌てて飛び起き建物の中に入ると、それを待っていたかのように土砂降りの雨が降り始める。

 間一髪のところで濡れるのを回避は出来たが、沈んでしまった天気と心が晴れることはない。

 ガラス越しに見える外の景色に、思わず零れたのは深い溜息だった。


「いつか、空を飛べるといいのにな」


 階段の踊り場で、一度振り返り小さくジャンプ。

 出来れば青空の下でやりたかったことだが、この天気じゃもう無理だろう。

 跳ねる身体は然程高さを得ることも無く、面白くないほど呆気なく地面に引き戻されてしまう。

 それでもいつか。自由を得て。

 あの空を自由に飛ぶことが出来れば。

 もう、こんな風にジャンプを繰り返す必要は無いのかも知れない。


 いつかきっと…………ジャンプではなく、自分の翼で青空に…………。

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