第204話 虎

 獰猛な動物だと言われても、その造形はとても美しいと感じてしまう。

 がっしりとした体躯に、堂々とした風格。毅然とした態度は威圧感を与え、森林の王者と言われるのも納得は行く。

 とは言えそれは自由を得た上での話だろう。

 今、目の前にあるのは頑丈な檻。

 その向こう側で大きな欠伸をした後、つまらなさそうにそっぽを向いてしまったのは美しいと感じる獣のなれの果てである。

 その姿を見て私は、とても可哀想だと感じてしまったのだった。


 私がその獣に興味を持ったのは小学校の頃である。

 学校の遠足で訪れた動物園。そこで始めて獣の姿を直に見た。

 当然、目の前にある個体とは異なる個体ではあったが、普段目にしている猫などでは感じられない迫力に目を惹きつけられ、一瞬にしてその存在の虜になった。

 その時に展示されていた獣はどうやら気性が荒い個体だったらしく、観客である私達に向かってしきりに威嚇を繰り返していたように思う。

 大きく開けた口から除く濁った犬歯は鋭く、それに噛みつかれたら一瞬にして私はこの場から居なくなってしまうのだろうなと恐怖したものだ。

 それでも私がこの獣の事に夢中になったのは、その獣が猛々しく格好良いと感じてしまったからだろう。

 

 私はとてもちっぽけな人間で、何も持っていなかった。

 酷く不器用で愚図でのろま。余り肯定されることも無く、いつだって機嫌を伺うように笑みを浮かべて場をやり過ごす。そうやって目立たないようにして生きていたせいで、ついだ渾名はお化け。でも、それで良いと思っていた。何故なら、トラブルには巻き込まれたくないと無意識に考えていたからだ。

 それでも作った笑顔はいつだって本音を隠したもので、本当は誰かに気付いて欲しかった。

 助けて欲しいと言うメッセージに気付いた誰かに手を差し伸べて貰える事を無意識に願っていたのだろう。

 ただ、その願いは結局叶う事は無く、もう何年も、檻の中に閉じ込められた肉食獣に淡い憧れを抱いたままなのは何も変わってなどいない。


 動物園に沢山いる中で決まって足を止め眺める勇猛な姿。


 時に愛くるしく、時に荒々しいその姿は、いつしか私に対してだけ見せる特別なものの様に感じられるようになった。


 いつかその檻の向こう側に、私も入る事が出来れば良いのに。


 何を馬鹿な事をと笑われるかもしれない。それでも私は、確かにそれを渇望してしまっていたのだろう。


 選択肢を間違えるということに後悔を覚えない瞬間は無い。

 それでも選んで訪れた結果に嘆くことはしたくない。


 私は今、入りたいと願っていた檻の中に居る。

 目の前には真っ直ぐに私を睨む獰猛な獣が一匹。

 いつ襲われてもおかしくない状態に、思わず笑いが零れてしまうのは私自身が狂ってしまっているからなのかも知れない。


 消える事は確かに怖い。

 それでも私はこの獣と一つになりたい。

 そうすれば……哀しかった私という存在がこの世界から消え、大好きな獣として私が存在することか可能になるかもしれないのだから。


 答えなんて分からない。

 それでも、私は選択する。

 一番最悪な結果を求めて、今、私は、目の前の獣にそっとこの身を差し出したのだった。

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