第196話 献血
人の命は尊いものです。
みんな手を取り合い、助け合いましょう。
耳障りの良い言葉に、確かにそうかもと縦に振った首。
目の前には献血という文字が書かれたのぼり。それが風に揺れていた。
昔……という言葉はどれくらいの時を示すものなのかは分からない。
ただ、今は以前とは違って、大分医療が進歩した事だけは分かる。
それでも、他に変えられない物は確かに存在している。
そう。例えば【血液】と言ったものもその一つだろう。
町を歩いているとよく耳にするのは「献血にご協力ください」という言葉だ。
本日の必要血液数は幾つです。そんな看板に書かれてる数字が大きな時もあれば、小さな時もある。
それを見て「ああ。私も何か協力しなければ」という気持ちは確かにあるのに、どうしても恐怖の方が勝り、結局その場から逃げるようにして立ち去ってしまう。
針が怖い。
申し訳無いという気持ちは有るが、こればかりはどうしようも無い事だった。
私は元々、血を見る事が苦手なのだ。
自分の血を見るのもダメで、他人の血なんてもっと無理。
そうでなくとも鋭い金属を目にしただけで身体は萎縮し、無意識に恐怖を抱いてしまう。
まだ実際に怒って居るわけではないと頭では理解していたとしても、それが己の皮膚を突き破り、肉に刺さったときの感触と痛みを連想してしまうと、途端に気が狂いそうになってしまうのだ。
己の身体が切り刻まれるのが恐ろしい。
だから病院にも滅多に行かず、健康である状態を保つ事を常に気をつけている。
そんな私だから、こうやって協力を呼びかける【献血】というものはとても苦手だと感じてしまうのだ。
それでも、私自身に流れる血液が、未だ見た事のない誰かの命を繋ぐことが出来るかも知れない大事なものだと言う事も理解はしている。
いつも横目で見て溜息を吐き、気付かなかったふりをして足早に立ち去る癖が付いてしまっているのは、それが分かっているから故のことなのだろうか。
今日もまた、見つけてしまった献血車のシルエット。
表には呼びかけのために建てられたのぼりと、本日の必要な血液の数を表記したボードが一つ。
なるべく目が合わないように顔を伏せ、存在感を消して足早にその前を通り過ぎる。
だが、不運なことに、今日は腕を掴まれ直接「協力をお願いします」と呼びかけられてしまった。
「……あっ……あ……」
断りたい。
冷や汗が背中を伝う。
「ごめ……な……」
「大丈夫です! お時間は取らせませんので」
こちらの言葉なんて聞く耳も持たないと、にこやかな笑顔の女性は無理矢理私の手を引っ張り献血車の方へと歩き出した。
こういう時、押しに弱い自分の性格に泣きたくなってしまう。
いつの間にか目の前には別のスタッフ。逃げ出すことも出来ずに説明を聞いていると、ふと目の前の女性の表情が消え一切の音が消えた。
「駄目ね」
突然言われた一言に、私は何も分からず狼狽える。
「彼女は使えない。破棄して」
そう言って私の手からパンフレットを奪い取ると、表情の無くなった女性は裏に回り別のスタッフを連れて戻ってきた。
「この女性です」
「了解しました」
防護服を身に纏った二人の男性スタッフ。彼らに両脇を固められ、無理矢理椅子から立たされると、私は引き摺るようにして建物の中へと連れ込まれる。
「ちょっ……何するんですか!!」
その叫びも虚しく、無機質なコンクリートの建物に連行された瞬間、私は言葉を失ってしまった。
「……何……これ……」
そこに有ったものは、深い、深い、真っ黒な闇。
どこまで有るのか分からない大きな穴は、向こう側の壁が見えない程巨大な円として足元に存在している。
「この血は再利用できない。破棄は勿体ないが、仕方無いな」
突然押された背中で狂うバランス。重力に引っ張られるようにして、宙に投げ出された私の体は、暗い穴へと真っ直ぐに落ちていく。
「あーあ。残念だ」
タスケテ。
そんな叫びをいう間もなく、どこまでも、どこまでも、落ちていく。
彼らの言っている意味が分からないまま、私の意識は途切れて消えたのだった。
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