第197話 召使い
「分かりました、ご主人様」
それは私に許される、数少ない言葉の一つだ。
私はある人に使えている。
所謂【召使い】というやつで、主と定めた人のために、日々勤めを果たしているのが私の生活である。
それは物心ついた頃から続けていることで、そのことに不満なんてものは持ったことが無かった。
私は幼い頃から母と二人でこの屋敷に住んでいる。
母が住み込みの使用人だった事も関係があるのだろう。私はこの屋敷以外の世界を見た事が無い。
幸いなことに旦那様はとても出来た人間で、使用人の子どもである私にも、坊ちゃんと同じように教育というものを受けさせてくれた。
お屋敷には坊ちゃんと同じ年頃の子どもが居なかったこと、将来的に坊ちゃんの補佐として動く人間が欲しかった事が理由としてあったのかもしれない。
それでも私にとって、そのことはとても有り難いことには違い無く、旦那様の期待に応えるべく完璧な人間を目指して努力を続けたものだ。
決して傲ること無く、謙虚であること。坊ちゃん以上に目立つことはせず、影のように寄り添い補佐を続ける事。それを心掛けながら、私は私で主の役に立てるように出来る事を精一杯頑張った。
私には才能が無いと思っていても、要領は良い方で。母親の躾の効果もあり、私は実に都合の良い人間に仕上がっていったのだろう。
そうやって私はこの家の主の息子である、坊ちゃんの専属と言う事でこの家に雇用されることとなった。
私と坊ちゃんの関係性は、実に良好なものだと言えるだろう。
私自身が坊ちゃんに不満を抱いたことは一度たりともないし、坊ちゃんが私の事を嫌って虐めるなどと言ったことも一切無い。兄弟のように育ったのだから、血のつながりよりも強い繋がりで家族のような関係を築けていたのかも知れない。
私の方が二つ年上なこともあって、坊ちゃんは私にとてもよく懐いてくれていた。私も可愛い弟が出来た様な気がして、坊ちゃんのことは大好きで。だから色んな事を共有したし、共に居る時間も必然的に長くなっていった。
そんな私が坊ちゃんのために働くことに喜びを感じ始めたのは、いつの頃からだろう。
私の事を信用して色々なことをお願いしてくれる。
そんな特別な関係性が、私にとってとても特別なものに感じていたのかも知れない。
最初は小さな作業から少しずつ増えていった仕事量は、最終的には屋敷の運営の心臓部に至るところまで託されるようになった。
一介の召使いが託されるような内容では無いと気付いては居ても、坊ちゃんや旦那さんに必要とされている事が嬉しくて、私はその期待に応えようと必死に働いた。
だが、そんなことは、私一人が感じてた喜びだったようだ。
その日は朝から屋敷の雰囲気がおかしかった。
いつものように坊ちゃんの部屋の前に立ちノックをしても、坊ちゃんは私の呼びかけに応えることなく沈黙を保ったまま。何か起こったのかと心配になり失礼を承知で扉を開けば、酷く沈んだ顔をしたぼっちゃんが、ぼんやりとベッドの上に座り天井を見ている。
「おはようございます、坊ちゃん」
私は努めて冷静を装い乍ら、いつもと同じ言葉で彼に声を掛ける。
「……………………」
だが、彼は私が欲しい言葉を返してくれる訳では無く、代わりに一本のナイフを差し出しこう指示を出したのだ。
「これが最後の仕事、だよ」
そう言って託されたのは、坊ちゃんと旦那さんを自らの手に掛けるということ。
「どういう事でしょうか?」
そんなことは到底聞き入れられないと断ると、これは君の義務なんだと返されてしまう。
嫌だ、駄目だと何度も懇願しても、私の主は首を縦に振ることは無い。
結局は根負けし、私は小さく「分かりました」とだけ答えた。
「これで、やっと、自由になれる」
逆転した立場。
私の前に跪くのは、今まで私が主として使えていたはずの人間である。
「君から奪った全てものを、今ここで返すよ」
僕が事切れたらこの鍵の部屋に行くと良い。そう言って手渡された小さな鍵は、彼がずっと大切に持っていたものだ。
「君が知らなければならない真実が、そこに全て遺されているから」
だからもう、終わりにしよう。
最後の仕事はとても哀しくて、とても虚しいものとして私の手を汚す。
目の前でゆっくりと傾く身体が床に倒れると、少しずつ逃げ出していく彼を形成していたはずの命の一部。
切り裂いた喉が吐き出す音はとても濁り、何を伝えようとしているのか不鮮明で聞き取りにくい。
それでも彼は嬉しそうに目を細めると、私に向かって弱々しく白い手を差し伸べ微笑んだのだ。
私は今、彼に渡された鍵を使わなければ入る事の出来ない部屋の中に居る。
そこで目にした記録は、本来の主が誰で有るのかと言う隠された真実。
だが、私はそんなことは知りたくなかった。
私が好きだったのは、私の事を必要としてくれる主で、私に主の座を戻し消えてしまった彼じゃ無い。
一人残された部屋で、私は声を殺して涙を流す。
真っ赤に染まったその両手の中に、もう二度と彼の温もりを抱くことが出来ないと言うことを噛みしめながら。
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