第190話 線香

 この時期になると、田舎の風景を思い出す。 

 どこからともなく香る線香の匂い。

 風鈴の軽やかな音色と耳を騒がせる蝉の声と。

 そして朗らかに笑う祖母の笑い声を思い出す。

 普段は離れて暮らす家族が郷里に集まるそんな時期。今はもう、随分と懐かしい思い出だ。


 私は昔からこの町に住んでいる。

 両親とも田舎から出てきてこの地で知り合い、結婚し住居を構えた。

 だから私の戸籍はこの町のもので登録されているのだが、それでも親の故郷はこの町では無い事も知っている。

 毎年お盆が来ると、どちらかの実家に帰る。これは恒例の行事だ。

 とは言え、父親の両親は既に他界し、親戚の付き合いも年々稀薄なものへと変わっていっていた。

 となると必然的に、里帰りは母親の実家に戻る事の方が多い。

 母の実家は、山間にある町である。

 常にコンクリートに囲まれている場所で暮らす私にとって、そんな田舎は普段とは異なる雰囲気で面白いものだった。

 幸いにも、従兄弟たちとの関係は良好で、彼らの友達とも仲良くして貰えていたと言うこともあったからだろう。

 早く家に帰りたい。

 そんな我が儘を言うこと無く田舎の生活を楽しめたのは、そう言う周りの環境もあったからなのかもしれない。


 私の記憶の中では、祖父は既に仏壇の中の存在だったように思う。

 実際にあったことはあるらしいが、それは私が生まれて直ぐの頃の話。

 祖父の顔も名前も知らないのだから、私の中の祖父の記憶は、遺影の中で笑う白髪の老人以外何もない。

 そんなもんだから、この家の主は祖母と言うことになり、私にとって母親の実家は『祖母の家』として認識されていた。


 祖母の家は随分と古く、大きな建物だった。

 昔ながらの平屋造りで、歩く度にギシ、ギシと音を立てる廊下。ガラス戸はあるが機能しているのか分からないほど、扉は常に開いたままで、網戸なんてものは存在していない。

 眠るときは常に蚊帳を釣るし、蚊取り線香を焚いて床に就いたものだ。

 日が落ちれば随分と涼しくなるとは言え、夏は湿度の関係で蒸し暑い時もある。そういう時は扇風機の出番だが、これがまた大きな音を立てて首を振るものだから、中々寝付けず夜遅くまで無駄な話を続けていることもあった。

 そんな非日常な事が刺激的に感じ、気が付いたら毎日が夜更かしの状態で。気の昂ぶりで大声で笑ったすれば直ぐに母親が飛んできて「寝なさい!」と怒られたものだ。


 とは言え、夜という時間が怖くなかったかというとそうでは無い。

 月の出ない新月の夜などは、窓を閉めて欲しいと思う程暗闇が怖いと感じたように思う。

 それでも淡い月明かりがある夜は、その幻想的な雰囲気が不思議で美しいと感じていた。


 いつの頃からか、帰省することが無くなり、最後に郷里に戻ったのは祖母の葬式の時だった。

 随分と大きかったはずの家は、私の身体の成長により、少しだけ小さなものに感じてしまう。

 敷居を跨ぐと香るのは懐かしい匂いで、それに思わず表情を和らげた。

 だがそれもほんの僅かな間だけ。

 喪服で身を包んだ人達が家に集まり始めると、家の中は直ぐに線香の匂いで満たされてしまう。


 チリン、チリンと軽やかな鈴の代わりに鳴るのは坊さんが叩く木魚の音で。時々なるりんの音が、重苦しい空気の中に響く。

 目の前の祭壇には良い笑顔で微笑む祖母の遺影。真っ白な花に囲まれて、私たちにまた会えたことを喜ぶかのようにこちら側に優しい顔を見せている。

 部屋の隅ではこの家をどうするかと言う相談をしている大人達。数年ぶりにあった従兄弟の様子はどことなくよそよそしく、軽く会釈しただけで特に言葉を交わすことはしない。


 嗚呼、こうやって変わっていくんだな。


 そう思うと少しだけ、寂しいと思い顔を伏せた。

 祖母という存在で繋がっていた親族の繋がりは、祖母が消えたことで少しずつ解け消えていく。

 葬儀が終われば遺産の話が出て、この家はきっとこの場所から消えて無くなってしまうのだろう。

 夏の日に香る線香と同じ匂いが、祖母との別れを知らせる。

 空に伸びる煙に乗って、祖母の魂も祖父の元へとゆっくりと昇るのだろう。


 私はそれを少しだけ、羨ましいと感じ、揺れる鯨幕をただぼんやりと眺めたのだった。

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