第189話 陽炎

 薄ぼんやりと浮かぶ映像は、ゆらゆらと揺れている。

 鮮明に見えるようで、曖昧な虚像。

 だが、それに無意識に手を伸ばしてしまうのは、今という時から逃げ出したいという心の現れなのだろうか。

 何も無い。誰も居ない。

 私の呼びかけに応えてくれるものがないこの場所で、私はただ、救いを求めて祈り続けていた。


 気が付けば、周りには誰も居なかった。

 誰も居ないどころか何もない場所。

 在る物は一面の砂だけで、水袋一つすら見つからない。

 記憶を辿れば朧気に思い出せたのは、現地で雇ったガイドの男が、自慢げに展開する見所スポットの話をうんざりしながら車内で聞いているという映像だ。

 普段なら来ようなんて思わない国に旅に出ようと思ったのは、長年ブラック企業に勤めていたせいで心が壊れたためだった。

 精神鑑定を受け休養を要すると診断が降りた時点で仕事を辞め、一時期は引き籠もって暗い部屋で鬱々と過ごしていたのだが、段々自分の中から色んな物が抜け出ていく感覚が気持ち悪くなり、思い切って外に出ようと決心したのがつい一ヵ月前の話。

 幸いにも使う時間が無かったせいで金に困ることはなかったから、この機会だと普段なら開く事もしない地域の旅行ガイドを手に取り旅行代理店に駆け込んだのだ。

 心が不安定な状態でハイになると、人間は突拍子もない行動を取ることがある。

 あの時の自分がまさにそんな状態で、辿々しい言葉で必死に思いの丈を語り、個人プランで旅券を発行してもらった結果、何とか飛行機に飛び乗れた。

 当然計画はノープラン。外国語なんて英語ですら出来る訳でも無いのに、全く言葉の通じない国に旅立つなんて本当に狂っているとしか言い様が無い。

 それでも新しい環境に飛び込んでしまえば、何かが違って見えるんじゃないかという淡い期待は確かにあった。

 たった一度の人生なのだから、あそこで諦めたくないという思いもあったのだろう。

 違う世界を見てみたかった。新しい挑戦をするために自分を奮い立たせるには丁度良かったんだと自分自身を納得させ、始めて踏んだ土地の土。

 日本とは異なる気候に正直気は滅入ったが、だからと言って折角ここまで来たのだから、何もせずに帰るなんてことはしたくない。

 必死に調べて雇ったガイドは若干胡散臭い印象を受けたが、日本語が通じるというそれだけの理由で雇うことにした。

 

 始めの頃は割と順調に旅行を楽しんでいたように思う。

 胡散臭いガイドも、付き合ってみれば何てことはない。単純に困った時には笑っておけ的な応対をするのが癖なだけで、根っからの悪人というわけでも無さそうだった。

 言葉が通じると言うことだけで得られる安心感というものがこれ程大きかったのかと、この地に来て始めてそう感じたのも新しい発見だ。

 始めの頃の警戒心なんて、気が付けば何処へやら。現地で出来た友達と、割と楽しく旅行という時間を過ごせたのは本当に幸いだった。

 だが。それも目が覚める前までの話である。


 何故こうなってしまったのか分からない状況で、必死に頭を働かせてどうすれば良いのかを考える。

 今、この状況が夢なのではないかと頬を抓っても、その考えを嘲笑うかのように確かに走る鈍い痛み。

 照りつける太陽が容赦なく皮膚を焼き、色々な物を奪っていく。

 滲む涙を何とか堪え顔を上げると、数十メートル先に見える人影。

 それは砂の上に倒れたシルエットで、ピクリとも動かない。

 それでも人の存在があると言うことに歓びを感じ、急いで立ち上がると必死に駆け寄る。

「…………っっ」

 だが、待っていたのは絶望で。そこに倒れているのが誰なのかを理解した瞬間、目の前が真っ黒に染まった。


 頼る者が居なくなったとき、身体から力が抜け動けなくなると言うことは実際にあるのだな。だなんて。

 そんな事を考えながら呆然と空を見上げる。

 目の前には確かに言葉を交わし、旅を共にしていた友人の姿。

 完全に事切れ何も話す事の無くなった彼は、まるで壊れた人形の様にその場に横たわり砂に埋もれていく。


 そうして、為す術もなく取り残された何処なのかも分からない場所で、絶望を味わいながら思わず願う奇跡。

 熱された砂の上でゆらゆらと揺らめく陽炎が、己と景色の境界を曖昧に変えていく。

 吐き出す息も随分と熱く、口の中の水分が失せ喉が痛みを訴える度咳き込みながら、見えてくる走馬灯に鼻を啜る。

 人生なんて本当に、碌でもないものだ。

 まるでこの幻影のように、描いた夢は一つも叶わず何もかもが無駄に消えて行ってしまう。

 嗚呼、神様。

 お願いです。


 もし、願いが叶うのならば、生まれ変われるときは  にはなりたくない。


「クソッタレ」


 そう言って空に掲げたのは指で作ったサイン。

 ゆらりと大きく傾いた身体は熱い砂の上に倒れ、そこでパタリと意識が途切れたのだった。

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