第186話 ビル風

 数字の上では大したことがないとしても、実際の体感だと思った以上のことに遭遇した場合、思わず思考が停止し無駄に笑い声を上げてしまうことがある。

 そう。例えばビル風。

 私は始めて、強風で人の体は浮くのだということを思い知らされる事になった。

 

 子供の頃、こんな事を考えたことが有るのは、何も私だけではないだろう。

 体に沢山の風船を着けたら、空を飛ぶことが出来るんじゃないんだろうか。

 そう思って大量の風船を買い込み、部屋中を風船まみれにして親に怒られたなんて、今では言い笑い話だ。

 そもそも、口が痛い思いをして沢山の風船を用意したところで、その風船が宙に浮き留まることなんて有り得無いと言うことは、今だったら普通に分かる事。

 それでも一生懸命二酸化炭素を吐き出し、酸素よりも重たい空気の塊を生成しているのだから、当然その風船は空に浮かぶこともなく潰されて処分されて終わってしまう。

 しかし、子供の頃の発想は本当に自由で、こうあって欲しいという願望がいつか形になることを夢見てしまうのは、未だに願わずには居られないのだから、本当におかしくて仕方が無い。

 そんなもんだから、チャンスさえあれば、大量の風船を用意してそれで空を飛んでみたいなんて夢見事を、いつか実現させる事が出来ればいいなと未だに考えている事はここだけの秘密である。

 とは言え、年々増加し続ける体重は、頭を痛ませる大きな悩みの種である。

 毎日の忙しさによるストレスと、得意先や上司との付き合いで連日続く暴飲暴食。運動し体を動かすことも出来ぬまま、食べて寝るを繰り返す生活が続けば自然と体は不健康へと真っ直ぐに進んでいくだけ。それでも納めなければならない様々なものと、生きていくために必要な労働は、容赦無く現実というものを突きつけてくる。

 毎朝鏡を見て思う事は、どうしてこうなってしまったんだろうというそんな疑問だ。

 サイズが一回り大きくなってしまったシャツに、ウエスト周りが大分広がってしまったズボン。ベルトは以前使用していた穴よりも随分と後ろの方に使用感が残り、それでも最近はキツイと感じる事が多くなってもう一つ後ろに移動している。

 その上に乗っかる大量の脂肪に思わず出るのは溜息で、痩せなければと思いながらもなかなか実行に移すことの出来ないダイエットに言い訳ばかりが湧いて出る。

「もう、行かないと」

 気が付けば時刻は出勤を示す時間。中途半端だった身支度を急いで終わらせると、慌てて掴んだ鞄の中に必要なものを突っ込み急いで家を出る。

 いつも使用している電車の時刻はダッシュで向かえばギリギリ間に合う。それでも、少し走っただけで息が上がり、汗が大量に噴き出てくるのだから疲労感は半端無い。体の変化に動揺するのは心で、いつまでも以前の価値観で物事を考えてはいけないんだという事を否が応でも思い知らされてしまう。

 そうやって、やっとの思いで辿り付いた駅で、荒げた呼吸を整えた後、改札を抜け来た電車の飛び乗ったところで漸く吐いた一息。

「あ……」

 しんと静まりかえった車内は、人と人との間がとても狭く互いの呼吸音が嫌でも聞こえる距離感だ。パーソナルスペースなんてそんなもの気にしていられない鮨詰め状態で、それでも隣近所に不快感を与えないための最大限の配慮は行おうと動く努力。出来るだけ隅の方へと体を追いやると、大きな体を縮めて邪魔にならないように壁に凭れる。

 本当にこういう瞬間が嫌で堪らない。

 ああ……痩せなくてはな……。

 そんなことを思うのは、これで何回目になるのだろうか。

 憂鬱な通勤は目的地に着くまで続いていく。やっとの思いで人混みから開放されると、地下の濁った空気ですら心地良いと感じてしまうから不思議だ。

 本当ならばエスカレーターやエレベーターを使いたいところだが、生憎最寄り駅ではそれらは常に人で埋まってしまっている。仕方なしに向かった階段で、これは運動の一環だからと自分に言い聞かせながら足を動かし上に昇っていく。傾斜角度と段数が思ったよりもあるそれは、たった数メートルの距離だとしても思った以上の疲労感とダメージを体に与えてくる。

 地上に出たら突然、強い風が吹き思わず目を瞑った。

「何だ?」

 風をやり過ごしたところで顔を庇っていた腕を下ろし周りを見る。

 同じ様に風煽られた人達が、乱れた髪や着衣を整え動き出すのを見て、私も慌てて足を動かし会社のある建物へと急ぐ。

 住居のあるエリアとは異なり、ビジネス街のこのエリアは聳え立つという表現が相応しい大きな建物がとても多い。空を覆い尽くすようにして天に伸びる無機物が、アスファルトの碁盤を埋め尽くすように犇めいている姿は、上空から見たら滑稽に見えるのかも知れない。

 いつもの道をいつもと同じ様に足早に駆け抜けると、再び強い風がビルの間を吹き抜けていった。

「うわっ!?」

 その時だ。

 始めて、強風で人の体は簡単に浮くんだということに気付いたのは。

 目に見え無い風が横から強い衝撃を与え、一瞬だけ足が地面から離れる。

 失った重力により傾いたバランスのせいか、体が不安定に揺れ恐ろしさを感じた。

 ただ、それと同時に昔思い描いていた夢を思い出したのは否定出来ない。

 このまま、紙飛行機のように何処かに飛んで行くことが出来たなら……そんなことを思い描き、思わず見上げたのはビルで閉ざされた隙間に見える青空。

 彼処まで行く事が出来れば、私は自由になることが出来るのだろうか。

 無意識に広げた両腕が、鳥の翼のように風を受け、そのまま空へと飛び立っていく自分の姿を想像し瞼を伏せる。

 そのまま、空に……。

 だが、次の瞬間、強い痛みで引き戻される現実。気が付けば地面の上に倒れ込み、痛めた肩を庇うようにして蠢く人間が一人。

「大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄ってきた人に大丈夫だと断り、逃げるようにその場を去りながら悔しさで唇を噛む。

 

 そう。

 どんなに夢を思い描いても、現実なんて本の一瞬で目の前に現れる。

 

 結局はこの大量のビルで閉ざされた檻の中で、毎日を同じ様に繰り返すだけが私に与えられた運命なのかもしれない。

 

 それでもいつか……自分の意思で。

 強い風に乗って、何処までも自由に飛んで行けたら良いのに。

 

 そう思わずには居られないのは、私がその青に憧れ、恋い焦がれているからなのかも知れない。

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