第184話 ハグ

 小さい頃は、いっぱいいっぱい愛されたいと願っていた。

 言葉などでは無く、行動で愛していることを示して欲しかった。

 多分私は、【温もり】というものに飢えていたのだろう。

 だから大切そうに抱きしめられている人達を見て羨ましいと感じてしまう。

 その広げられた両腕の中に、私の居場所があればきっと…………。


「これを君に」

 そう言って手渡されたのは小さな箱だった。

「これは?」

「開けてご覧」

 向かいの席に腰を下ろす年上の彼は、そう言って楽しそうに目を細めている。

「うん」

 特に何も特別な日ではなかったはずなのに、突然のサプライズ。それに心が踊りながらも、この贈り物の意味が分からず思わず戸惑う。それでも彼が開けて欲しいと訴えるのだから、私は小さく深呼吸を繰り返した後ゆっくりとその箱の蓋を開いてみることにした。

「…………あ」

「気に入ってくれた?」

 箱の中にあったものはシルバーのネックレスだ。

「…………うん」

 本当に欲しかったものは愛を約束するための証として存在する指輪だったのだが、今は未だその時ではないのだろう。少しだけ感じた落胆を悟られないように笑顔を作ると、私は小さく頷きながら、そのプレゼントを大事そうに抱きしめこう答える。

「凄く嬉しい」


 私と彼が出会ったのは数年前の話である。


 早くに両親を亡くし、祖父母の手により育てられた私は、決して不幸といえる境遇では無かったのだろう。

 だが、他所の家の様に私の祖父母が、私の事手放しで可愛がってくれたのかというと、実はそうでは無い。

 よく【孫は目に入れても痛くない】と言われることが多いが、私の祖父母は躾にはとても厳しい人間で、両親を失って寂しい想いをしている私に同情すること無く、私を厳しく育て上げた。

 それは彼らが昔気質な気質であったことと、家のしきたりが大きく関係していたのだろう。

 少しでも彼らの意にそぐわない態度や行動を示せば、容赦なく行われる折檻。それを愛情から来るものだと思えるかというとそんなことは無く、それが続くという事がただ、ただ、苦痛で仕方が無い。

 それでも私は彼らの元を飛び出すことはせず、独り立ちが出来る歳まで彼らと生活を共にしていた。


 その理由は至って単純なもの。

 私自身が【弱い】からである。


 私が彼らと少しずつ距離を置けるようになったのは、私自身が一人で生活を営める様になったからと言う事が大きかった。

 彼らも私が彼らの元から巣立つことを喜び、以後、彼らとの繋がりは少しずつ稀薄な物になってしまっている。

 家を出てから数年程は定期的に近況を報告していたのだが、ここ最近はそれすらも億劫で。

 忙しなく過ぎる毎日に、彼らの存在を忘れる事もしばしばである。

 そして漸く出会えたのが目の前の彼。

 私にとっては【運命の人】と呼べるような相手だ。


 私はこの人と作る幸せを夢見ていた。

 私にとって、この人だけが唯一の存在になるんだと信じていたからだ。

 でも、この時に気が付くべきだったのかも知れない。

 彼が何故【指輪】ではなく【ネックレス】をプレゼントしてくれたのかと言うことを。


 あれからどれだけ待っていても、私の欲しいと考えている言葉を彼がくれることは全く無い。

 少しずつすれ違いが増え、会う時間も減り、彼との連絡も取れなくなっていく。

 そして目撃してしまった決定打。

 それは、私の心をいとも簡単に壊してしまうほどの衝撃だった。


「ねぇ……どうして…………」


 薄く開かれた唇。そこから溢れ出る赤が、色を失っていく肌と白いシャツを汚していく。

「私にはくれなかったの?」

 少し離れた場所に横たわるのは、彼の腕を組み歩いていたはずの女性。

「私はずっと待っていたのに」

 彼女の左手の薬指には私が欲しいと願っていたものが居座り、その存在を主張していて悔しくて仕方が無い。

「私はずっと欲しかったんだよ?」

 ほんの少しだけでも良い。その両手を広げて「おいで」と柔らかくハグをしてくれれば、それだけで満たされる幸せは確かに存在していたのだ。

「でも、貴方はくれなかった」

 柔らかな愛情なんて何処にも無い。肉体をぶつけるだけの即物的な愛という幻想が、私にとっての現実だという事を突きつけられ、私は涙で頬を濡らす。

「だから、ね。私から貴方にあげるの」

 白く長い両腕。

 私はそれを広げて彼の身体を優しく抱きしめる。

「愛してる」

 これが最後の抱擁だとしても、私にとってはこの一瞬が永遠となる。

「愛してるわ。いつまでも」

 私が欲しかったのは小さな愛情。

 ただ、抱きしめてくれるだけで良かった。愛してると言ってもらえるだけで幸せだった。

「永遠に…………貴方だけを、愛してる」

 だから私はこの腕を解くことはしない。

 私からのハグは彼への愛の形。


 何処までも、何処までも…………私と共に堕ちて行けば良いと、そう願いながら、私はそっと瞼を伏せるのだ。

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