第183話 霧吹き

 別に植物を育てることが得意なわけじゃない。

 それでも、ついつい気になった鉢植えを見つけると、無意識に買ってしまう。

 日当たりの良い出窓には幾つかの観葉植物。それらは暖かな光を受けて、ご機嫌そうにその葉っぱを明一杯広げていた。


 元々、こういった植物を好むのは母の趣味だった。


 私の母はとても植物に愛されている人だったようで、どんな植物でも上手く育て綺麗な花を咲かせることに長けていた様に思う。

 そんな才能を羨ましいと感じながらも、どちらかというと私はこういった植物がとても嫌いで苦手だった。

 植物は、手入れをしなければ好き放題に伸びてしまう。

 または、勝手に枯れて居なくなってしまう。

 そうでなくとも、それらに集る虫がとても気持ち悪くて仕方が無い。

 全てが生きているからこそ起こる結果だと頭では分かっているはずなのに、その過程がどうしても苦手なのだから仕方が無いだろう。

 だからこそ、植物を育てるという事に対して好印象は持てず、どちらかというと嫌悪感の方が強かった。

 ……いや。

 本当はそんなことが理由では無いのかも知れない。


 幼い頃の私は、植物に対して嫉妬していたのだ。

 そう。本当は、母に愛され大切にされている植物の事が、とても羨ましく、そして憎たらしくて仕方が無かったのだろう。


 園芸が趣味だった母は、外から見ればとても素敵な奥様だったに違い無い。だが、実際は子どもに無関心で趣味に没頭する程、植物というものに取り憑かれていた女性だったように思う。

 それでも母の優しい記憶が全く無いわけでは無い。

 それこそ私がとても小さな頃は、母からの愛情を一身に受け、私自身も母のことは大好きだったと記憶している。

 しかしそれは、私が成長するにつれ、少しずつ薄れていった。

 どこで掛け間違ったのか分からない釦は、小さなズレのせいで時間と共に大きな亀裂へと広がっていく。

 そうやって離れてしまった心は、いつしか修復すると言う作業自体を諦め、空間だけを共有する赤の他人という関係性を築いてしまっていた。

 母がこのように壊れてしまったのは、私の父親の存在が大きく関係しているのだろう。

 物心ついた頃から、父は家に居ることが少なかったと記憶している。

 別に他の女性と特別な関係を築いていた訳でも無ければ、他に家庭を持って居たというわけでは無かったのだが、何故か父は母の傍に在ることを極端に嫌がっていた様に思える。

 覚えて居る面影は常に父の後ろ姿だけ。家に居る間は自室に籠もり、長い事職場に泊まり込んで帰ってこない事も多かった。そうやって気が付けば父の存在が私の中から薄れ、いつの頃から父親というものが認識出来なくなってしまっていた。

 私にも父が居たのだという事に気が付いたのは、父親の訃報を耳にしたとき。

 狂ったように仕事に打ち込んでいた父親は、小さな箱になって私たちの元へと帰ってきた。

 そのことについて、不思議と悲しいという気持ちは湧いてこなかった。同僚や友人から語れる父の姿はどこか他人そのもので。本当にそれが私の知る父親だったのかと疑いたくなるほどかけ離れた人物像だったように感じてしまう。実際、印画紙に切り取られた虚像の中では、父は私たちに見せてくれたことの無いような笑顔を見せてカメラレンズに手を振っていたのだ。

 これは私の知らない誰かだ。

 そう、私が認識しても仕方が無い話である。


 驚いたことは、そんな父親が思った以上に色々な人に慕われていたのだという事実である。

 葬儀の間中参列者が途切れることは無く、知らない顔が右から左へと流れていく。喪失感というものは確かにあったのだろうが、現実味の薄い色の無い光景は、矢張り他人の味わっていることを傍観している感覚に似ていて感情が上手く追いついてこない。

 そうやって消えてしまったたった一人の人間が、完全に母の心を壊してしまったのだろう。

 あの日以来、母親が私の事を見てくれることは二度と無くなってしまった。


 その場に響く軽やかな旋律は、所々音が外れ狂ったオルゴールのように同じ所ばかりを繰り返す。

 手には水のたっぷり入った霧吹きが一つ。

 降り注ぐ日差しは柔らかく、綺麗な緑に染まる新緑が、自然の恵みを得る様にして天に葉を広げている。

 指を動かしポンプでくみ上げた水は、細かい粒子となって噴射口から外へと吐き出されていく。

 空気に触れた細かい水は、何度も植物に降り注ぐ度、小さな小さな虹を形作った。

 今は亡きその姿は、植物に愛された母の面影。

 結局私は、一度も母の腕に抱かれることなく母と同じ歳になった。

 だが、私はそれを悲観したりはしないだろう。


 何故なら、私の母は常に私の傍に在るのだ。


 そう…………

 今、こうして、吹きかけた水を喜ぶこの植物。


 それが私の母の慣れの果てだという事は、きっと、誰も、知らない事である。

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