第177話 うさぎ

 可愛い可愛いうさぎさん。

 大きなお耳と真っ赤なお目々。

 小さなお口がヒクヒク動けば、可愛いおヒゲがぴょこぴょこ動く。

 そんな可愛いうさぎさん。

 心はとっても臆病で。

 いつでもビクビク警戒中。

 だから守ってあげないとね。

 寂しくないように抱きしめながら、ずっと傍に居てあげるから。


 その人は、初めからどこかしらおかしかった様に思う。

 確かに感じていた違和感はあったのに、それを深く追求しなかったのは、失敗した選択肢だったのだろう。

 でも、そんなことが気にならないほど、その人に近付きたいという気持ちの方が強く出てしまった。

 何故ならその人は、【とても美しかった】からである。

 あんな美しい人と関わりが持てるのならば、地味でどうしようもなかった私の人生は華やかなものになるのかも知れない。

 そんな浅はかな思いは、ただの独りよがりの願望だったはずだ。

 しかし、何の偶然からか、予想外にも私のそんな小さな夢が現実として叶うチャンスが巡ってきたのだ。

 これは好機だと、私は後先考えずその提案に頷き、その人の隣に居るという特権を勝ち取ることに成功した。

 そこからの時間は、とてもめまぐるしく、そして、とても素晴らしいものだったと言っても過言ではない。

 全てに措いて充実した日々。わたしはそのことにとても満足していた。

 だからなのだろうか。その違和感に気が付かなかったのは。


 その日、私はその人に珍しいお願いをされることになった。

 その人が連れてきたのは小さな子供で、色素のない全身が真っ白な見た目をしていた。その中で一際異彩を放つのが真っ赤な虹彩を放つ目で、一目見てその子がアルビノだと言う事が理解できた。

 その子は生まれつき身体が弱く、一日の殆どをベッドの上で過ごしていたという。

 そんな子供がどうしても外を見たいと我が儘を言ったらしい。車いすの上に腰掛け怯えるような目で私を見るその子のことを、失礼にも憐れだと思ったのは言うまでもないだろう。

 その日の仕事は、その子の付き添いをする事で、たった一つだけやってはならないという条件を出されていた。

「お願いですから、この子に、食べ物を与えないで下さいね」

 その人は綺麗な笑顔で微笑むと、私にその子を託し、用事を済ませるために出かけてしまったのだった。

 見ず知らずの相手に警戒するのは当然で、その子は私に全然心を開いてくれなかった。それでも、私は必死に話しかけ、少しずつ互いの距離を縮めることに専念したものだ。

 その日は結局、その子の心の障壁を壊す事は出来なかったが、それからは定期的にその子の世話を私が託される事が多くなっていった。

 何度も顔を合わせていると、段々と警戒も解けていくものらしい。

 合う回数が増えるにつれ、その子は私に心を許し、愛らしい顔で微笑んでくれるようになった。

 相変わらずその子の見た目に驚かされる事は多いが、見た目が普通と異なるだけで、相手は立派な人間である。身体が弱いため身体に負担をかけるような事が出来ない事を除けば、年相応の可愛らしい面を沢山見せてくれる、とても素直で良い子だった。

 いつしか私は、その子のことをとても大切に思う様になっていた。

 限られた自由の中で必死に藻掻く様を憐れだと思う気持ちが強くなってしまったからか、その子の我が儘を叶えてあげたいと。心からそう願う様になっていたのかも知れない。


 ある日、その子から一つのお願い事をされた。

「私、ケーキが食べてみたいの」

 そう言って恥ずかしそうに笑うその子に、私はとても胸を打たれた。

「任せて!」

 そう言って張り切ってしまったのがそもそもの間違いだったのだろう。あの時に出された条件など頭から完全に消え失せてしまっていた私は、何も考えずにその子にプレゼントするためのケーキを買いに出かけてしまったのだった。

 その子がリクエストした物はただのショートケーキ。真っ白なクリームに包まれて、綺麗な赤いイチゴが乗ったスタンダードなケーキの一つだ。

「はい。どうぞ」

 そう言って皿を差し出せば、その子はとても嬉しそうにケーキのスポンジにフォークを埋めていった。

「わぁ……」

 小さくカットされたふわふわのスポンジ。それを大きく口を開けて頬張りにっこりと笑顔。

「美味しい!」

 本当に嬉しそうにしながら、その子は味を噛みしめるようにケーキを口に運んでいく。

「美味しい? そっか」

 その子のこんな笑顔が見れるのならば、買いに出かけた甲斐があると。私は自慢げに胸を張ると、ゆっくり食べて良いんだよとその子の頭を撫でてやる。

「お姉ちゃん、ありがとう!」

 小さくなっていく白いケーキは、気が付けば皿の上から姿を消して。代わりに聞こえる「ごちそうさま」に、私の心はほんのりと温かくなった。


 その日の夜。私はその人から電話を貰った。

 聞けば、その子の体調が突然急変したとのことで、私は慌ててその人の元へと駆けつけた。

「あなた! 一体何をしたの!?」

 ヒステリックに響く声。私は必死に今日あったことを思いだし、その人へと伝えていく。

「なんて事をしてくれたのよ!!」

 次の瞬間、私の左頬に強い衝撃が走った。

「食べ物を与えるなって、ちゃんと伝えておいたじゃない!!」

 その時に始めて、私は自ら侵した過ちの大きさに気が付いた。

「ごめんなさい!!」

 謝っても遅いことは分かって居ても、許しを請うてしまうのはその子の無事を願ってしまうから。

「うさぎが死んだらあなたのせいだからね!!」

 その人は私の事を許せないようで、何度も何度も私を叩いた。

「ごめんなさい! ごめんなさい!!」

 必死に謝りながら私は何度もその子に合わせてくれと懇願を続ける。

 しかし、その日を最後に、私はその人から声を掛けて貰う機会を失ってしまった。


 今考えてみれば、実に奇妙な事ばかりだと、私は思う。

 あの子が普通の人と異なっていたことが問題ではなく、あの子に対するあの人の態度が異常だった事に、時が経って始めて気が付いたのだ。

 まるで、意図的に作り出された愛玩用の人間で、あの子はあの人にとって可愛がるためだけの存在だったのではないか。

 だからこそ、あんなに極端な身体の弱さで、好きな物も食べる事が出来ないほど自由を制限されていたのかも知れない。


 あの人が言った「うさぎ」という言葉が、私を嫌な気持ちにさせる。

 あの子はもしかしたら、兎小屋で飼われているうさぎのような存在で、時が経てば直ぐに捨てられる様に……管理されていた人間だったのかも知れない。


 でも、願わくば、この勝手な妄想が現実のものではありませんように。

 ゴミ捨て場に向かいながら私はふと積み重ねられたゴミ袋の塊に目をやる。

「…………」

 そこに在る違和感は、地域指定の半透明なゴミ袋の中に混ざった真っ黒の袋の塊。

 その隙間から真っ白な手が覗いているのはきっと気のせいなのだろう。

 まるで、解体された兎のパーツのように、白い肌に滴る赤は、ゆっくりと灰色のコンクリートの上へと広がっていったような気がした。

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