第176話 ピアノ
白い指が鍵盤を叩く。
初めはゆったりとしたスローテンポ。
そこからリズムを付けて軽やかなステップへ。
徐々に速度を速め、緊張感を漂わせて押し寄せる音の波。
いつしかそれは、荒れ狂う嵐のように猛々しい物へと変わり、やがてプツリと途切れ、終わりを迎える。
数秒間の沈黙。
そして再び、白い指が鍵盤を叩く。
穏やかなスローテンポの旋律が、何処かもの悲しげに、綴るシナリオ。
その曲は、一つのドラマを形作っていた。
私がそのピアニストの存在を知ったのは、ショッピングモールに置かれていたグランドピアノの前で足を止めた時だった。
いつもは自動演奏で曲が流れているそれに、この日は何故か人が座っている。
いつもとは異なるその光景が気になり、思わず足を止め見入ってしまった。
始め、彼はピアノを演奏すること無く、ただぼんやりと鍵盤を見つめているだけだった。
私の興味は、彼がいつピアノを演奏するのだろという、ただそれだけ。何もそれは私だけではなく、彼の存在に気が付いた者の全てが思っていたことだろう。
時間にしたら本の僅かなものだったのかも知れない。その沈黙を破るように、突然、彼が腕を持ち上げると次の瞬間、美しい旋律が辺りに響いたのだった。
その曲は始めて耳にするものだった。
どことなく有名なクラシックにも似ているが、ポップテイストを含みつつ、ジャジーな雰囲気も醸し出している。かと思えば突然激しいロックに代わり、そして最終的にはレクイエムのような哀愁を漂わせる。たった一曲の中に広がる様々ドラマは、一台のグランドピアノと一人のピアニストが紡ぎ出す不思議な物語。瞼を閉じれば直ぐにでも、その幻想的な光景が広がるような気がして、思わず聞き入ってしまう。
突然始まったリサイタルは、あっと言う間に終わってしまう。
音が切れたタイミング。ふと我に返り瞼を開けば、先程までピアノの前に座っていた彼は、既に席を立ち何処かへ向かって歩き始めていた。
彼が世界的に有名なピアニストだと知ったのは、それから暫く経ってのことである。
彼のピアノを聞く事になった二度目のチャンスは、知り合いから譲って貰ったオーケストラのコンサートチケットがきっかけだった。
余り音楽に明るくない私だったが、折角買ったのに行けないから頼むと懇願され、仕方なしに会場へと足を踏み入れる。
幸いにも、同伴してくれる知り合いに恵まれ、何とか恥を搔くことをせず無事に付いた席で、何となくパンフレットを広げぼんやりと座っていた。
オーケストラをホールで見るのは、やはり迫力が違っている。幾重にも重なる音の波がうねりとなり、鳥肌を立てるほどすさまじい重圧に圧倒された。
それでも凄いという感想以外の言葉が口に出せず、段々退屈に感じ始めてきた頃だったように思う。
突然、ホール全体がしんとした静寂に包まれる。
そして、その静けさを優しく揺り動かすように、ピアノの美しい音色がホール全体に響く。
暫くの間、高いキーで奏でられるソロパート。一度演奏の手が止まり、そこから他の楽器に押し上げられるように、音が絡まりあいもつれ合う。
これだけ沢山の音に揉まれながらも、不思議と彼の奏でる旋律は、呑み込まれることはない。耳を澄ませば確かに聞こえる美しいメロディが、あの時と同じように、見たこともないドラマを作り出す。
そうやって、私は再び、彼の奏でる素晴らしい演奏を耳にすることが出来たのだった。
そこからは、チャンスが在る毎に私は足繁く彼の演奏を聴きに出かけた。
時には有名な楽譜から、時には聞いたことのない独創的な旋律まで。
まるで魔法を掛けられたかのように、彼の手から紡ぎ出される波のような音階は、私の心を擽り、そして、惹きつけていく。
たった一台のピアノだけで、これほどにまで心を揺さぶることが出来るのは、本当の意味で天才と呼ぶにふさわしい人物なのだろう。
いつしか私は、彼の才能に恋い、そして焦がれるようになってしまっていた。
さて。
ここに一台のピアノがある。
それはとて大きなグランドピアノで、高性能なAIを搭載し、一度奏でた音を正確に記録・再生することが出来る最先端ものだ。
その前に座るのは、私が愛して止まない一人のピアニスト。
彼は静かに瞼を伏せると、その白と黒の鍵盤に向かって優雅に指を下ろしていく。
記録したいのは、彼の奏でる美しい物語。
再生したいのは、私の身勝手な我が儘。
それでも彼は、それを嫌がらず受け入れてくれた。
この演奏は、私のためだけに行われる、特別なもの。
楽譜が終わればその夢は、一瞬にして覚めてしまうほど儚げな時間。
それでも、このピアノがこの一瞬を、瞬時に切り取り記録してくれるのだろう。
そして、すり切れ、ぼろぼろになって壊れるまで、繰り返し、繰り返し、美しい音色を奏でる事を期待している。
例えそれが、悪魔に魂を売った結果だとしても、私はきっと後悔はしない。
この演奏が終わったら、私は多分、彼を殺すだろう。
何故なら、私は。
私以外の人間が、彼の演奏を耳にする事を望んで居ないのだから。
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