第178話 はちみつ

 甘い甘い蜂蜜を、ティースプーンで丁寧に掬い上げる。

 琥珀色の透き通った液体に垂らし、くるくるスプーンを回して一つにしていく簡単な作業。

 仕上げにしぼったレモン汁を垂らして、爽やかな香りをワンポイントに。

 わたしはこの、とても贅沢な時間が何よりも至福だと感じている。

 何故ならわたしは、昔から甘い物が大好きだからだ。

 嬉しい事があったときや、悲しくて落ち込んだとき。理不尽なことに腹が立ち頭にきたときも、甘い物を食べれば一瞬にして幸せにな気分に変わっていく。

 甘味の種類は様々だったが、それでも、甘い物は甘い物。私のカンフル剤は甘い物だと言っても間違いは無い。

 そしてそれを他人と共有することも、私に取ってはとても大事な事の一つだった。

 私が甘い物にはまったきっかけははちみつだった。

 私は元々、甘い物は苦手な方の人間だった。

 母親がとても甘党で、出される食事全てが甘かったために、苦手意識が植え付けられてしまっていたのかも知れない。

 中でも砂糖による甘味は、どんな甘みよりも苦手で、それを口に含んだ瞬間激しい吐き気を催すほど苦手だった。

 そんなもんだから当然、反動的に好きになったのは辛い物ばかり。特にレッドスパイス系は大好物で、それらの商品や香辛料を見かけると直ぐに買ってしまうほどはまっていたものだ。

 ただ、そう言う物ばかりを好んで食していると、段々と味覚が狂ってくるらしい。

 いつしかわたしの舌は、まともに料理の味を感じられなくなってしまっていた。

 そうなってくるとつまらないと感じるのは、日々の食事の時間である。

 何を口にしても狂った味にしか感じられないのだから、段々食べる事が苦手になり、日に日に身体は痩せ細っていったのだ。

 これではまずい。

 この危機的状況に気付いたのは、とある料理番組を視聴したことがきっかけ。

 食事はバランスよく健康的にだなんて。そんな謳い文句を憎々しげに見ながらも、心の何処かでそんな風に食事を楽しめる事が羨ましく感じてしまう。

 そんな理由から、わたしは辛いもの中心の生活を一変、食事の改革に乗りだしたのだった。

 勿論。試みを始めた当初はうまくいかない事に苛立ちを感じる事も多かった。

 何をやっても裏目に出る自分に、不甲斐なさを感じ投げ出したくもなったものだ。

 それでも、根気よくきっかけを探し続けた結果、味覚を変えるためのターニングポイントとしてであったものがはちみつだったのである。


 そのはちみつは、名前を聞いたこともないようなラベルの養蜂場が生産しているものだった。

 瓶はシンプルで、金色のステッカーが貼られているだけ。

 容量は普通のはちみつよりも少し少ないといった感じなのだが、わたしは偶然、その商品を手にする機会に恵まれた。

 物試しと口にしてみれば、不思議な事に優しい甘さがわたしをあたたかく包み込んでくれる。

 一目惚れと言えば分かりやすいだろうか。

 わたしは直ぐに、その味の虜になってしまった。


 よい食材に巡り会えると、途端に心の充実は大きくなるらしい。

 いつしかわたしは、『このはちみつにあう料理は何があるのか』ということばかりを考える様に変わっていった。

 そして、気が付けば今の状態。

 痩せ細って見窄らしかった身体は大分ふくよかになり、味覚が狂って食べる事の楽しみを忘れてしまってた一般人は、食べるのがとても好きでたまらない料理人へと変貌していた。

 自身が食べる事を楽しめるようになると、美味しい物を分け合いたいと思うのは当然の事なのだろうか。色々な新作を思い付く度、私は身の回りの人に作ったそれらを提供して回るようになった。

 皆、私が作ったものを手放しで褒め、リピーターになってくれる。

 そんな賞賛が心地良いと感じてしまったのだろう。私は周りに煽てられるまま、どんどん天狗になっていった。


 ある日、愛用していたはちみつの生産が終了してしまうという知らせを受けた。

 その知らせを受けて、私は頭が真っ白になってしまった。

 慌てて在る分の在庫を買い占めはしたものの、生産を終了してしまうのだ。いつかはその在庫も無くなってしまうことは明らかで。

 このはちみつが無ければ、私はどうやって料理を開発していけばいいのだろう。

 それほどにまで、このはちみつは、私に取っては無くてはならない物になってしまっていたのだ。


 在庫の瓶が減る度、私は強い不安に囚われる。

 瓶の中身の嵩が少しずつ、そこに近付く度に遠ざかる至福の時間。

 使うはちみつはティースプーン一杯分。

 それを満遍なく溶かし、ささやかな幸せを噛みしめる。


 いつか、その味が楽しめなくなるかもしれない未来に怯えながら、私はスプーンに僅かに残る仄かな甘さを、ゆっくりと舐め取り深い溜息を吐くのだった。

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