第170話 獣

 誰だって、心の中で獣を飼っている。

 その強さは人それぞれ異なるだろうが、それが獰猛で他者を傷つけるということだけは変わらない。

 そしてその獣は、時として飼育者の制御を放れてしまう。

 だからこそ、常に、気をつけて監視していなければならなかったのだ。


 とても良い人。

 それが周りからこの人に貼られたレッテルだ。

 どういう人なのか何一つ分からないのに、表面上の情報だけで善し悪しを判断し、勝手に解釈を添え評価を下す。実に身勝手で迷惑な話である。

 だが、それを否定するわけでも無く、笑顔でやり過ごしているこの人も、相当な身勝手と言わざるを得ないだろう。

 結局のところ、他人に本心を悟られること無く、如何にどう欺けるかが上手い方が勝者になれる。つまりはそう言うことなのかも知れない。

 では何故、私がこの人の事をその様に表現するのかと言うと、私がこの人の裏の顔を知っているからである。

 誰からも善人だと称されるこの人のもう一つの顔。それは、非常に残忍なもの。つまりはそう言うことである。

 元からこうだったのか、後天的にそうなったのかは定かでは無いが、私がこの人と出会ったときには既に、この人はそう言うものになってしまっていた。

 それでも、出会った当初は善悪の区別というものはあったように思う。それが少しずつ乖離していったのは、ここ数ヶ月の話。決定打になってしまったのは、信じていた相手からの裏切りだったように記憶している。

 この人が妄信的に信じていた相手は、実にやり手の実業家だった。

 目的のためなら手段も選ばないというほど豪腕で、傲慢な主。この人は、その相手に気に入られようとして様々なことに手を染めた。

 それでも、この人の気質はとても臆病で、人のことが好きで堪らない博愛主義者。主のために行う悪行に良心が苛まれていくことを、常に悩み続けていたように思う。

 始めに変化が起こったのは、この人が初めて人の命を奪ったときだった。

 己の起こした罪の重さに耐えられず、この人は善の仮面と悪の仮面を切り離してしまったのだ。

 彼としては、この人の利用価値は捨て駒程度。それでも、この人は彼に気に入られようと必死に追い縋っていたと記憶している。

 幸いにも、私は双方に対して接点のある傍観者であったため、とても近しい場所で二人の事を見る事は出来た。だが、ただ見ている。それだけのことだ。

 彼らの関係は実に危うく曖昧なモノで、一歩間違えると直ぐにでも片方が消えてしまうほど危険なものだった。それでも、周囲にはそれを悟らせない辺り、相当な食わせ者だったのだろう。

 此処に在る雑誌や、マスメディアでの報道で伺い知れるのは、そんな彼らの側面だけで、誰もその裏に在るものを見ようとしない。

 否。実際は垣間見ようとする好奇心が強い者も居たのかも知れない。だが、そういう者達は、人知れず存在を消され、いつの間にか記憶からも消えていった。

 だから、真実を知るものは極僅かな人間のみ。もしかしたら、その真実ですら欺瞞だったのかもしれない。


 彼らのパワーバランスが変わってしまったのは、ほんの些細なことが切っ掛けだった。

 今まで主だった者が匙加減を間違えたことで、聞き分けの良い忠犬は突然猛獣へと姿を変える。今まで募らせてきた不満というものが確かにあったのだろう。幕切れは実に呆気ないものだった。


 失ってしまった存在は、どれだけ嘆いても取り戻せないと分かっては居たはずなのに、火が点いた衝動を止める事は難しく、あっという間に訪れる終幕。永劫に続くと思われていた帝国は、一晩のうちに崩壊してしまったのだ。

 主を失った独裁国家は、突然混乱に包まれた。力という弾圧により押さえつけられていたものが爆発すると、民衆は暴徒と化し秩序を無くす。それは、主の犬だったこの人も例外では無く、鎖を引きちぎり暴れ出した獣は、良い人の仮面を脱ぎ捨て、次々に人を屠り続けた。

 全ての暴動が落ち着き、町が静けさを取り戻した頃には、沢山の屍が山を形作った。その頂上で、獣となったこの人は一人、大きな声を上げて泣いていた。

 全身を真っ赤な鮮血で塗らし、身体から腐臭を漂わせながら、己の罪を嘆くように、ひたすらに吠え続け泣き喚く。

 だが、悲しい事に、この人を慰めてくれる者は誰も居なかった。

 何故なら、この人自身が主の首を引きちぎってしまったからだ。


 あれ以来、人である事を辞めた獣は常に苦しそうに唸り続けている。

 ただ、これ以上命を繋ぐということを望んでは無いのだという事は何となく分かった。

 鍛え上げられた四肢はすっかり痩せこけ、美しく優しかったその顔は屍のように血の気を失いつつある。

 しかし、血走った目だけはギラつき、今もまだ狩るべき獲物を探している様に見えるときもある。

 結局、この人の本質は良い人の仮面を被ろうとした獣だったということなのだろう。

 それを残念だと思いながら、私にはどうすることも出来ないと吐く溜息。

 この記録も、もう暫くすれば必要が無くなる。

 私に出来ることは、ただ見守ることだけ。

 たった一人の為に、必死に藻掻き続けた獣の生き様を、ただ静かに書き留めることだけしか出来ないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る