第163話 ストレス

 朝から大声で怒鳴られてされる説教のせいで、ずっと苛立っている状態。

 日々平穏に生きるを目標としているはずなのに、何だって上手くいかない状況は、ただ、ただ、ストレスが溜まっていくだけ。

 それを改善しようと躍起になっても、やることなすこと空回り。いつだって自分は不器用な人間なんだという事だけを痛感させられる。

「だから、この資料を作るときは気をつけろと、あれほど口酸っぱく言ったのに……」

 そんな風に文句を垂れているのは上司で、元々この仕事は彼が請け負っていたものだったはずだ。

「はぁ……すんません」

 本来受け持つはずでは無かった業務を押しつけられたのにこの結果は、本当に憑いていないし最悪で。

「何だ!? その態度は!!」

 そもそも、俺がやることなすこと全てが気に入らない上司にとって、俺の返事なんてどうでもいいのは分かりきったこと。

「聞いてます。申し訳ございませんでした」

 初めの頃は馬鹿正直に頭を下げて謝罪を繰り返していたが、段々と調子に乗ってきた相手に殺意を覚えてからは、適当に聞き流すことを決め受け流している。この上司は実に性格が悪く、部下を貶して優越感に浸りたい姑息なタイプなのだ。気を遣う方が無駄だという事も理解しているため、なんと言われようとこの態度を変えるつもりも無い。

 周囲からは「またいびられてるよ、可哀想に」なんていう同情の声が聞こえてくるが、この状況を改善しようと動いてくれる人間は誰一人としていないのだから、ここに居る全員が碌でなし。みんな同罪である。

 この説教はいつまで続くのだろう。

 退屈に欠伸が出そうになるのを堪えつつ、ただ、上司の気持ちが落ち着くのを黙って耐え続ける。

「今度から気をつけたまえ!」

 その言葉がやっと聞けたところで、長かった説教タイムは漸く終わりを告げた。

「分かりました」

 毎回思うのだが、この時間を別の作業に充てられれば、もっと効率良く業績を伸ばせるのに。

 自分の席に戻り後ろに推してしまった作業を再開させると、今日も確定してしまった残業に憂鬱を覚えながら仕事に意識を集中させた。


 帰宅する頃にはすっかり夜も更けてしまっている。

「はぁ……」

 毎日が同じ事の繰り返しにいい加減うんざりだと思うのに、仕事を辞める勇気が持てないのは給料面が破格だからという理由に他ならない。どうせ家に帰っても一人だし、付き合っている彼女もいないのだ。友人は時間帯があわず捕まらないし、休日になるまで毎日のストレスで疲れて寝てしまうから人付き合いも無い。今日もまた、帰り道にあるコンビニによって一日を無事過ごせた事に対するご褒美を用意する。最近はまっているアルコールは期間限定商品。それを楽しむのが、唯一の楽しみなのだ。誰にも文句は言われたくなかった。

「何だって俺ばっかり…………」

 家に着き雑用を済ませ漸く口にしたアルコールは、日頃溜め込んだ鬱憤を吐き出すための切っ掛けの一つになる。愚痴る相手は居ないから、誰も居ない空間に向かって一人。つらつらと不満を吐き出していくと、こんなにも内側に言えなかった憤りが貯まっていたのだなと言う事を実感して驚いた。

 いつかは彼奴らのことを見返してやる。

 そんな思いで過ごす一週間は、もう何年目になるのだろう。

「…………あーあ」

 いつの間にか空っぽになった空き缶を傾けても、中にあるのは数滴の雫だけ。

「つまんねーの」

 酔いが回ると忍び寄るのは睡魔だ。溜まった鬱憤をある程度吐き出しスッキリしたところで、ゴミを片付け、やることを済ませた後に床につく。直ぐさま降りてくる微睡みに囚われると、呆気なく意識を手放し寝息を立て始めた。


「……だから、さっきから同じ事を何回も説明しているだろう!?」

「え?」

 突然の怒号に驚いて顔を上げると、目の前にはあのムカツク上司。

「なん……」

 目が覚める前の記憶は確か、布団に潜り込んだところで途切れている。

「さっきから無視をしてるが、聞いているのか!? 君は!!」

 それなのに、何故、今、目の前にコイツがいるのだろう。

「……ゆ……め……?」

 そうだ。これはきっと夢に違い無い。

「何を言っているんだね? 君は」

 ムカツク上司は、明らかに不機嫌そうな表情で俺を睨んでいる。

「そうだよな、これはきっと夢だよな……ハハッ」

 それにしたって、何で夢にまでこの上司がいるのだろう。ただでさえ、日中、同じように厭味を言われたばかりだと言うのに、眠った後ですらこの上司に厭味を言われるだなんて、どこまでも憑いていない。最悪な夢見に湧き上がる殺意は、簡単に理性のリミッターを外してしまう。

「そーだ。良い事考えた」

 丁度目に付いたのは、ペン立てに立ててあったカッターナイフだった。

「夢なら別に、コイツをやっちまっても問題ねぇよなぁ」

 相変わらず上司は、グチグチグチグチと文句ばかりを垂れ流している。

「前から思ってたんだけど、アンタ、マジ、煩いッスよね」

 これだけ虐げられてるんだから、もういい加減堪忍袋の緒も切れた。

「ちょっと一回、黙ってくれません?」

 次の瞬間、上司の顔面目掛けてカッターナイフを振り下ろす。

 響き渡る絶叫と、どよめく室内。

「あははっ。いい気味」

 理性が外れてしまうと、今まで積もった恨みが一気に溢れ出す。血を流し、恐ろしいものを見る様に怯えながら許しを請う上司の姿は滑稽で。今までの恨みをたっぷり込めて、何度も何度もカッターを振り下ろしながら怒りと憤りをぶつけていく。

 どれくらい上司に向かって刃物で斬りつけていたのだろう。気が付けば、自分の手は真っ赤。衣服にも薄汚い血が付着し、立派な犯罪者が一人出来上がってしまっていた。

「……はぁ、スッキリした」

 どうせ現実では出来ないことなのだ。こんな時くらい、羽目を外すのも良いさ。そう自分に言い聞かせカッターナイフを手放した瞬間、けたたましい音で鳴り響く目覚ましのアラーム音。


「……ゆ……め……」

 目を覚ませば朝という時間。最悪な夢見は終わり、今日という日の始まりがやってくる。

「……まぁ、そんなもん、だよなぁ」

 そう思い何となく電源を入れたテレビには、ニュースキャスターの女性が昨日起こった傷害事件の概要を語っていた。

「……え?」

 テロップに映し出された被害者の名前。それを見て思わず絶句したのは言うまでもない。

 それは、あの、ムカツク上司の名前で、一言一句間違っていないのは気のせいではないだろう。

 彼の見舞われた事件は通り魔による斬りつけ。顔面を鋭利な刃物で執拗に裂かれ、病院に救急搬送され治療を受けているとのことだ。

 犯人の目撃情報は無く、警察は必死に行方を探しているとのことだが、偶然にしては出来過ぎている内容に、思わず背筋に寒気が走った。

「なん……で……」

 布団から出て立ち上がろうとしたところで、足元に転がる金属の音。

「…………」

 それを見て、俺は再びことばを失うこととなる。


 何故なら、そこに在った物は、血の付いた一本のカッターナイフ。

 それは、夢の中で、あの上司を斬りつけたときに使用したものと、とても良く似ており、どう見ても物的証拠にしか見え無い凶器。そのものだったからだ……。

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