第158話 寝癖
俺の髪は毛質の硬い癖っ毛で、簡単に寝癖が付いてしまうのが昔からの悩み。
それでも今までは大して気にしたことも無いのは、伸びてきたら直ぐに切ってしまっていたからだ。
部活が野球部だったこともあり、髪型なんて特に興味はなかったが、引退して時間に余裕ができると、何となく周りの事が気になり、自分の格好が気になってきた。
この年になって見た目を気にするのは些か遅すぎる気もするが、一度気になるとどうにもダメで。勇気を出して扉を叩くカットサロンは、とても場違いな空気で思わず逃げ出したくなったのだった。
「大分癖が強い髪……ですね」
鏡越しに苦笑いを浮かべるスタッフと目が合う。
「はぁ……なんか、すんません」
言われなくても分かっていることだが、そんなことを言われると思わず謝ってしまった。
「で、でも! やりがいがありますから!」
美容師冥利に尽きると張り切った彼は、慣れた手つきで私の髪に手を入れていく。まるでカットの練習用マネキンのように、自身の髪を弄ばれる様を呆けてみることしか出来ない俺は、鏡の中で変わっていく自分の姿に戸惑うばかり。
「お兄さん、カッコイイですね」
シャキ、シャキと鳴る鋏の音は、中々新鮮な響きだ。
「芸能人に似てるって言われません?」
それはきっと会話を繋げるためのお世辞だろう。
「いやぁ……そんなこと言われたこと無いっすよ」
それでも、自身を褒められることが嫌だとは感じない。この辺は実に現金で、煽てられれば調子に乗ってしまいたくもなるものだ。
「いやぁ。これだけ格好いいんだから、髪型変えたらきっとモテまくりますよ!」
そんなことを言われると何だかそんな気になってくるから不思議である。
「そ、そうっスかね?」
「絶対そうですって!」
このスタッフは実に商売上手。整えられていく髪を見ながら、思わずそんなことを考えてしまった。
「はい。終了です」
普段はバリカン一本で事足りていたことも、こうやって丁寧に鋏を入れアレンジを加えられると、なんだかいつもと違って見えるから不思議だ。
「どうでしょうか?」
鏡を持ちながら仕上がりを伺うスタッフの声は心なしか不安そう。
「すごいいいと思います」
だが、腕に自信があると啖呵をきった通り、その腕前は素晴らしいもので。
「とても気に入りました」
そう答えてやれば、担当してくれたスタッフが安堵したように胸を撫で下ろした。
「またのお越しをお待ちしております」
髪型が変わると世界が変わって見える。その言葉もあながち間違いではないのかもしれない。偶然ではあるが良い出会いに、またこの店を訪れようと決めそのまま出かける。待ち合わせ場所に着くと、既に約束していた友人達の姿が。雰囲気の変わった俺を見て、彼等は思った事を素直に口にした。
からかいこそあったが新しいヘアスタイルは割と高評価の模様で、何だかんだと言われたのは、「格好良くなったじゃん」というお褒めの言葉。それがとても嬉しくて、つい財布の紐が緩んでしまう。
時間一杯遊んで帰宅し、家族に新しいヘアスタイルを見せると、妹は腹を抱えて笑ったものの、それを嫌がることはしなかった。それどころか、笑い終わった後に似合ってるよというお褒めの言葉を頂いてしまう。
こういうのも悪くはない。
これを気に、もっときちんと身だしなみのことを考えるのもいいかもだなんて、そんなことを思いながら風呂に向かった。
日中はしゃぎすぎていたせいだろうか。その日は気が付けばベッドの上。意識を失うように眠りに就いていたようだ。
「う……うんっ……」
寝苦しさに気が付き覚醒する意識。部屋の温度が高いのだろうか。湿度のせいで温められた室温により、肌は汗で濡れている。その不快感から一度身体を起こすと、空気を入れ換えるために窓を開けた。
「ふわぁぁ……」
何となく癖で手を回した後頭部。軽く頭を搔いたところで感じるのは違和感だ。
「……ん?」
確かに、碌に髪を乾かさず寝たことは間違い無い。だが、日中散髪を済ませたばかりなのだ。それなのに、指先に触れる髪の毛の長さが妙に長い事が気になった。
「なんだ? これ」
一度気になると確かめずには居られない。面倒臭いと思いながらベッドから抜け出ると、電気を消して鏡を探す。丁度いい具合に机の上に置かれた一枚の手鏡。どうやら妹の忘れ物らしい。これはいいやと手に取り自分の姿を写してみると、そこに映し出された像を見て思わず言葉を失った。
「なん……だ……これ……」
そこには、信じられないものが映っていた。
好き放題にうねる長い髪。それが奇妙な寝癖をつけ歪な形を形成している。
こんなに髪の毛を伸ばしたこともなければ、こんな寝癖は見たことがない。
「うわぁっ!?」
慌てて鏡を手放すと、床に落ちたそれは小さな音を立てて割れてしまった。
この状況を説明してくれる人は誰か居るのだろうか。
自分の髪がどうなっているのか、怖くて確認する事も出来ず蹲る。
頼むからこれが夢であって欲しい。
そう願いながら待つのは夜明けを告げる日の光。
明日の朝、光りの元で再び自分の姿を確認するまで安心は出来ない。
今は未だ、時計の針が深夜という時間を刻む。
明日の朝が来るまでは、まだまだ時間がかかりそうだ……。
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