第155話 声
いつからだろう。
声を失ったと感じるようになったのは。
この声は、決して私の声などではない。
確かに言葉を発しているのは私の身体ではあるが、口から吐き出される音は私の覚え居てるものではないのだ。
まるで、その音だけを取り換えられてしまったかのように、とても違和感を感じるそれに、私は耐えられず口を閉ざす。
そして…………いつしか、話すと言うことを止めてしまった。
少しずつ口数を減らし、言葉を発する機会を減らしていくことで段々と喋るということが苦手になってどれくらいの時が経ったのだろう。
両親は言葉を話そうとしない私を心配し、どうにかして言葉を取り戻そうと試みてはいる。
それでも私は、そんな両親の期待に応えることは出来そうもない。
それほどにまで、私のものに感じられないこの声のことが怖いと感じているから。
前に一度、占いを生業としている叔母にこのことを相談したところ、こんな事を言われたのもその原因だ。
彼女は私の声について、深い溜息を吐きながらこんな事を呟いた。
「そうかぁ……アンタがそうなってしまったんだねぇ」
心から同情したようなその一言に、私は思わず泣きたくなってしまった。
「分かるよ。不安だもんね」
そんな私の心を知って知らずか、叔母は柔らかく微笑むと、私の事を抱きしめ慰めるように背中を撫でてくれる。
「自分の声が自分のものじゃないように感じるなんて、本当に辛いもんね」
その言葉に思わず溢れ出す涙。結んだ口の隙間から、悔しい思いが嗚咽となって溢れ出す。
「うんうん。そうだね」
それを叱るわけでもなく、叔母はただ頷くだけ。
「喋ることってとっても怖いもんね」
それに何度も何度も頷くと、叔母の柔らかな腕に僅かに力が籠もった。
「でもね。これだけは覚えておきなさい」
声色はとても優しいのに、どこかしら冷たさを含むその物言い。
「アンタはいつか、言葉を発する時が来る」
それはまるで、一種の予言のような一言で、聞いた瞬間背筋に悪寒が走る。
「その時に、アンタは自分の声で紡がれた言葉の重みを自覚するはずだよ」
抗えない運命だとでも言うように、叔母はハッキリとそう言い切ると、身体を離し真正面から私と向きあった。
「だからこそ、言葉は慎重に選びなさい」
そう言った叔母の顔はとても真剣で。冗談を言っている様子は一切ない。
「後悔するかしないかは、アンタ次第。それくらい、アンタの声は何よりも重く、意味を持っているんだ」
その時は、叔母の言葉にただ恐怖を感じるだけだった。
何故叔母がそんなことを言ったのか、その意味を深く考える事をしないまま。
言葉を話さない私は、もう長い事いじめの標的にされている。
理由は至極単純なもので、会話をしないことが『気味が悪いと感じる』という、ただそれだけの理由で。
余り目立たないようにしていたのもそれを助長する原因だったのかもしれない。
リーダー格の子に目をつけられた時に、この学校という空間で過ごす時間が地獄だと感じる様になってしまった。
私が何も話せないことを良い事に、その行動は日に日にエスカレートしていく。
日々、恐怖に怯え、人の目を伺うようにして気配を消すのに、あの子達は必ず私を見つけ出し当たり前の様にいじめという行為を繰り返す。
そして遂に、私の中で何かが壊れてしまった。
『死んじゃえば良いのに』
プツン。という音を立てて崩れた何か。咄嗟に浮かんだ言葉は相手の不幸を願うもの。
勿論、その言葉の通り願いが叶う訳では無いと思っていた。
だが、次の瞬間。私は有り得無い光景を目の当たりにする。
「きゃああああああああああああああっっっっっっっっ!!」
響き渡る絶叫。
遅れて野次馬の騒がしい声が少しずつ増えていく。
どこからか慌てて近付く教師の声。
目の前には、あのこと一緒に私の事をいじめていた子達が泣き喚く姿。
私には、何が起こったのか分からなかった。
気が付けば、目の前には頭から血を流して倒れているあの子の姿がある。
頭部に負った裂傷は、頭上から落ちてきた鉢によるもの。
何の因果か分からないが、それは真っ直ぐに彼女に向かって落下すると、頭蓋を割るようにして彼女にぶつかり、彼女を巻き込んで粉々に砕けてしまった。
果たしてこれは偶然なのだろうか?
私は始めて、『私が発した言葉の意味』の重さを自覚する。
ただ、私はこの状況が、少しだけ嬉しかった。
何故なら、私が言葉を発すれば、何かが起こるかも知れないという期待が持てたからだ。
私のものでは無い声はもしかしたら、神様からの贈り物なのかもしれない。
では、この先。私は一体どうするべきなのだろうか。
私の横では、私の肩を掴み必死に声を掛ける教師の姿。
だが、もう、そんなことはどうでも良い。
聞きたくも無いと思っていた声を、今はとても発したくて仕方が無い。
そうすればきっと……私の世界は大きく変わってくれるのだろう。
それは多分、とても素晴らしいものになるはずだ。
何だかそんな気がして、私は静かに微笑んだのだった。
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