第151話 七夕

 私には、もう会うことの出来ない恋人がいる。

 彼は数年前、私の前から姿を消してしまった。

 でも、たった一日だけ、彼と出会える日が存在している。

 それが七月七日。七夕と呼ばれている日である。


 そんな馬鹿な話あるわけ無いと笑われるかもしれないが、これはずべて事実だ。

 何故ならこの日は彼の命日。彼のために手を合わせ、彼の存在を恋しがれば、彼は本の僅かな間だけ、私の目の前に現れてくれる。

 時間制限付きの恋人になってしまったことに悲しさは勿論ある。

 それでも、私の愛は変わらない。

 私にとっては彼がたった一人の存在。それ以外は要らなかった。

 彼がこの世から消えて今日で何年経ったのだろう。

 今年もまた、七夕の日がやってくる。

 仕事を少し早めに切り上げスーパーに寄り、彼の好きだった物を買い急ぐ家路。お墓に行って手を合わせることは難しいから、写真立ての中の彼に手を合わせて一時の逢瀬を楽しむ。ゆらりゆらりと揺れる線香の煙は、彼のために用意した大好物の品々を、彼の元へと届けてくれるだろう。

 切り取られた時間の中で停止した彼に向かって、私は微笑み買ってきたアルコールを開封する。彼とよく飲んでいた思い出の味は、何年経っても苦いまま。歳を取れば慣れるかと思っていたが、やはり舌を刺激する苦さは苦手だと感じてしまう。それでも、それの味を楽しもうとするのはきっと、私自身が彼の事を忘れたくないと願っているからだろう。

 会話はいつも私からの一方通行。写真立ての中の彼は、常に笑顔でそれを聞いているだけ。返事なんて返ってこないけれど、それで構わない。何故なら、瞼を閉じれば彼の面影が直ぐにでも私の目の前に現れ、昔と同じように楽しそうに返事を返してくれるのだから。

 そうやって、摘みを片付けながら酒の味を楽しんでいる時だった。

「……誰?」

 突然の訪問者を告げるドアベルの音が玄関から聞こえてくる。二人だけの時間を邪魔されるのが気に入らず始めは無視をしていたのだが、扉を開けろと言う催促が止む気配は残念ながら無い。

「ごめんね。お客さん来ちゃったみたい」

 彼にそう謝り席を立つと、大きな溜息を吐きながら向かった玄関。ドアスコープを覗き込めば、二歳上の姉がドアの前に立っている事に気が付いた。

「何?」

 正直に言えば姉を家に招き入れるつもりは無かったが、話を聞かない限り彼女は帰ってくれないだろう。仕方無く鍵を開け扉を開くと、持って居た紙袋を差し出しながら姉が部屋の中に入ってくる。

「これ。お母さんから」

「ふぅん」

 何だってこんなタイミングで差し入れを持って来るんだろう。折角の彼との時間を邪魔されたことが気に入らなくて、なんとかして早く帰って欲しいと遠回しに出すアピール。そんな事はお構いなしと姉は部屋の奥に進んでいき、彼の写真が置かれているテーブルの前で足を止めた。

「…………ねぇ、アンタ」


 その声は怒りに満ちているように感じられた。


「これって、どういう事なの?」


 姉が見て居るのは彼の遺影と線香の立てられた香炉。

「どういう事って、そう言う事よ」

 見れば分かるでしょ。そう言って姉を睨むと、彼女自身も私を睨み付け怒号を上げる。

「何考えてこんな事してんのよ!!」

 持って居た母親からの差し入れをテーブルの上に置くと、姉は私に向かって手を振り上げた。

「これ、私の旦那じゃん!!」

 次の瞬間、私の左頬に彼女の手の平が勢いよく当たる。

「勝手に人の旦那殺さないでよ!!」

 顔を真っ赤にして涙を浮かべて。私の事を軽蔑するように睨むと、姉は徐に香炉を掴み床に向かって投げつけた。

「気味が悪い! 頭おかしいんじゃないの!?」

 肩で息をして感情を抑えようとしているようだが、昂ぶったそれはなかなか押さえる事が出来ないようで、姉の目から大粒の涙が溢れ出し頬を伝う。

「信じらんない! 気持ち悪い!!」

 もう一度。私の頬に入る強烈な平手打ち。机の上に飾ってあった彼の写真を掴むと、姉は急いで玄関へと向かい足を動かす。

「……何よ」

 勝手にやってきて、言いたい放題言った挙げ句、この仕打ちは酷い。

 私の中で沸々と怒りが湧き上がり、姉の後ろ姿を睨み付けると、衝動的に向かうキッチン。無意識に手に取ったのは包丁で、玄関を開けて出て行こうとする彼女の背中に向かって勢いよくそれを突き立てる。

「勝手に彼を持って行かないで」

 その声は、驚くほど低く冷たかった。

「あなたには渡さないから」


 足元には、だらしなく倒れる姉の姿。

 彼女の下に広がる赤は、少しずつ大きくなっていく。

 彼女の手に握られた写真を引ったくるように取り返すと、私は再び室内に戻りアルコールに口を付ける。

 この日は私にとって特別な日。

 私が手に入れることの出来なかった大切な人の面影は、私の中で私だけに微笑みかけてくれていた。

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