第141話 日傘

 日差しが眩しくなってきた頃から、白い日傘の女性とすれ違うようになった。

 気品の良さが漂うその人は、すれ違う度爽やかで甘い匂いが仄かに香る。

 黒く艶やかな髪が風に揺れる時に見える項は、白くてとても艶っぽい。

 とても綺麗な人だと、胸が高鳴るのを感じた。

 ただ、残念なことに、私にはこの人との接点が一切無い。何処に住んでいる人なのかも知らないし、声をかけたこともない。こちらから会釈をすれば軽く会釈を返してはくれるが、所詮はその程度の関係性。ただ、道ですれ違うだけ。そんな寂しくて淡泊な繋がりしか無かった。

 でも、それで良いと思っていた。

 何故だか分からないが、何となく今の距離感が心地良いと、そう感じていたからだろうか。

 もしかしたら、無意識に抱いた清らかな空気を侵したくはない。そんな風に考えているのかもしれない。

 いずれにせよ、私とその人は、ただ道ですれ違うだけの関係。

 本当にそれだけだったのだ。


 すっかりと夏空へと変わった天気は、雨の気配なんてどこにもない。

 より暑さを感じさせる騒がしい声と、涼やかで透き通った音色がどこからともなく聞こえてくれば、自然と表情が緩む。動く事で上がる体の熱。内側から吹き出す汗は、とまる事無く肌の上を滑り、衣服をしっとりと濡らしていった。

 カラカラカラ。

 自転車の車輪が音を立てて回る。この茹だるような暑さと緩やかな坂道は、思った以上に体力を奪い、ペダルを漕ぐ気力が無い。仕方なく手押しで登り切るまで自転車を移動させると、前方から菫色のワンピースを着た女性がやってきた。

「こんにちは」

 すれ違いざま、いつものように挨拶をし頭を下げる。他の相手なら会釈をする程度で終わることなのに、わざわざ声を出して言葉を伝えるのは、心のどこかで自分という存在に気付いて欲しいと願っているからだろうか。

 ぺこり。

 彼女は日傘を傾けながら、私の言葉に対して軽い会釈で答える。日傘のせいで、彼女の顔はよく見えない。ただ、彼女が動くと、揺れる空気に乗った仄かな甘い香りが、私の鼻孔を擽った。

 今日もまた、挨拶だけを交わしてすれ違う。

 私はこっち、彼女は向こう。

 私は彼女の後を追うように、その場に立ち止まり小さくなる彼女の後ろ姿を見つめるのかもしれない。

 でも、彼女が立ち止まり、こちらを気にするように振り返ることはあり得ない。

 だから、特に期待してはいなかった。

 どうせ彼女の後ろ姿が消えてしまうまで、私という存在は、その辺にある電柱と同じようなものだろう、と、高を括っていたのだ。


 チリン。


 どこからともなく聞こえてきた風鈴の音色。

 ガラス同士が軽くぶつかり広がっていくのは、透き通った音の波紋だ。

「え?」

 その音が気になったのだろうか。いつもならば足を止めること無く消えていく後ろ姿が、ゆっくりと歩みを止める。

 真っ白で綺麗な日傘がふわりと動く。

 こちらを見る。

 そう思った瞬間、私は無意識のうちに視線を逸らしてしまった。

 目が合う事に恥ずかしさを感じたから?

 それも理由の一つだ。

 彼女に断りも無くずっと見続けていたせいで、後ろめたさを感じてしまったから?

 その理由も否定出来ない。

 でも、そんな理由付けなんて後からいくらでも湧いてくるもので、彼女が振り返ると分かった瞬間、体が無意識に反応してしまった。これが最も分かりやすい理由だろう。

 彼女と接点を持ちたいと思いながらも、その切っ掛けを作るのが怖い。

 何だかそう、思ってしまったのだ。


 しかし、神様とは、なんでこんなにも意地悪をするのだろうか。

 今までは彼女にとって私はその辺にある置物と同等の存在だったはずなのに、今日に限って彼女は私に興味を持ってしまったようだ。

 少しずつ近付いてくる足音が、私の心を掻き乱すし、今すぐにでも逃げ出してしまいたい気持ちが、グリップを握る指先に力を込めてしまう。

「あっ、あのっ」

 それでもせっかくの機会なのだ。勇気を持って会話くらいは出来る関係になれればと思い口を開き出した言葉。

「いつも綺麗だなって思って見てました! すいません!」

 頭が混乱してしまっていたのだろうか。自分でも恥ずかしいことを言っていることは分かった。顔が真っ赤になり、居たたまれなさで顔を上げることが出来ない。嫌な気分にさせてしまっていたらどうしよう。そんな不安が段々積もっていく。

 そして、彼女からの言葉は何も無いまま、私との距離は直ぐ手の届く位置まで短くなってしまった。

 直ぐ目の前で立ち止まった気配。視線の先に、彼女の綺麗な爪先とシンプルで素敵なサンダルが見える。

 これは、顔を上げた方が良いのだろうか。

 彼女から何か言葉をかけて貰えないかと願いながらも、どうしたらいいのかが分からない。その場に降りる沈黙が長くなれば成る程、居心地の悪さが比例して大きくなる。

 これ以上は無理だ。

 遂に限界を超えたところで、私は意を決して顔を上げた。

「いつかあなたと話をしてみたいと思っていたんです! 宜しかったら、少しお話でもしません……か……」


 直ぐ、目の前に有るものが、一体、何なのか。

 始めは全く分からなかった。

 確かに『ソレ』は、『彼女』の格好をしていた。

 先程すれ違ったばかりの彼女と同じ服装で、同じように長い髪を風に揺らし、綺麗な白い日傘を差している。

 しかし、『ソレ』は、私の思い描いたモノと全く異なる見た目をしていた。

 それは、至近距離にあり、私の顔を覗き込んでいるようだ。

 ようだ、と表現したのは、『ソレ』がどこを見て居るのかが分からないから。

 何故なら『ソレ』には顔が無かった。

 真っ白い肌にあるはずの、顔を示すパーツが一つも無いのだ。

 だから、『ソレ』が本当に私の事を見て居るのかは分からない。


 それでも……

 私は何故かこう思った。


 私を見て、嬉しそうに『笑った』んだということを……。

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