第139話 鏡
一枚の鏡。その向こう側に見える世界は、常に現実とは正反対。それでも向こう側で真似をする自分を嫌いにはなれない。だってそこに居るのは誰でもない私で、私の知る私はここにしか居ないのだから。
私が鏡の中に映るもう一人の自分を意識し始めたのは、とある噂話がきっかけだった。
それはありきたりな怪談の一つで、鏡の中の自分が話しかけてくるというもの。
もちろん、それを頭から信じていた訳では無い。
寧ろ、湧いて出た好奇心なだけで、それが本当に起こるなんてこと、これっぽっちも想像してはいなかった。
だからこそ、気軽に試してしまったのだ。本当に鏡の向こう側の自分が、私に話しかけてくれるのかどうかということを。
鏡の中の自分と会話する方法は至って単純なもので、鏡の前に立ち何でも良いから話しかけてみるというもの。
どんなに馬鹿馬鹿しくても、取りあえずそれを毎日繰り返すだけでいいらしい。
話を聞いたその日から、取りあえずと思って実践開始。鏡を用意し自分の姿を写して、毎日他愛もない事を話しかける。
今日あった出来事、気になった話題、テレビで観たことや、クラスメイトとの会話。鏡の向こう側に居る自分に話し始めた頃は何を言えばよいのか分からず口ごもる事も多かったが、毎日続ける事でそれは段々と苦にならなくなっていく。
そう。例えるなら、毎日付ける日記と同じようなもの。習慣づいてしまいさえすれば、それを行う事に意識を向けなくとも自然と出来るようになるのだから不思議だ。
そうやって毎日。決まった時間鏡の中の自分と会話を続けていると、段々と意識というものが変わってくるのだろうか。
無反応だった鏡の向こう側の自分が、少しずつ私の言葉に対し反応を見せ始めたような気がして不思議な気持ちになってくる。
多分これは気のせいで、本当は鏡の此方側の自分が都合の良いように動いているはずなのに、何故か向こう側の自分と此方側の自分が、異なる人間なのではないかという錯覚に陥ってしまうのだ。
そんな馬鹿なと首を振り、一度は鏡の自分に話しかけるという行為を辞めたこともあった。
でも、それを辞めてしまうと、今度はとても寂しいと感じ物足りない。
そして、ずるすると引き摺るように繰り返す生産性の無い会話のやりとり。
「あのね。今日、学校で、こんなことがあってさぁ」
ワンコインで買った安っぽい鏡を立てかけて、今日もまた向こう側の自分に対し話しかける。反対の世界に棲まう私は、私の話に相槌を打ちながら、続きを話してと急かしてくれる。
「でね、クラスメイトの子がね……」
聞こえてくるのは、音にならない私の声。私の脳内に直接語りかけるようにして、私の話に応えを返す。
「あっ! ごめん! ちょっと席外すね!」
母親に呼ばれた事に気が付き慌てて椅子から立ち上がると、急いで部屋を出て行く私。
鏡の向こう側の私も、当然同じ動きをして鏡の前から姿を消すはず……だったのに、私はこの時向こう側の様子が異なっている事に気が付かなかった。
鏡の向こうで私が笑う。
『いってらっしゃい。ずっと、待ってるから』
部屋の中から消えたはずの私は、向こう側の世界で小さく私に手を振ったのだった。
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