第138話 タチアオイ
タチアオイが真っ直ぐ伸び、てっぺんの花が咲くと、鬱陶しかった雨も終わる。
それはまるで、長い間藻掻いていた泥濘から、漸く這い出る事が出来たかのような……そんな開放感を味わえる瞬間が近いということでもあった。だからこそ、この花が開くのを心待ちにしていたのは言うまでもない。
早く、早くと、もう少しで開花するそれに、小さく呟いたのはそんな言葉だった。
報われない努力を続ける辛さは、自分が一番、よく分かっている。
「頑張れ」と言う言葉の分だけかかる余計な期待。それに応えようと努力する自分は偉いんだと、そんな風に思い込んでいた。
なぜ、そうするのかというと、始めは単純に認めて欲しかったから。努力することで周りに、自分という存在を知って貰いたいと無意識に願っていたからだ。
その想いに答えるべく努力を続ける事で得られた結果は、思った以上に高評価を貰えるもので。小さな成功が積み重なれば成る程、段々と欲が深くなってきてしまっていたことは否定出来ない。
それでも私は嬉しかった。ちっぽけだった自分がこうやって、周りに認められていくことが嬉しくて仕方が無かったのだ。
しかし、欲というものはいつまでも溢れ続けて枯渇する事がない。
一つ成功の味を占めてしまうと、次の賞賛が欲しくなるのは当たり前の事なのだろう。
それは、私自身も同じで、功績が認められれば認められるほど、更に大きな賞賛が欲しいと無意識に願ってしまうのを止める事が出来なかった。
大きな野望はいつしか大きな成果を成し遂げる。
そんな風に思い描いていた未来図。
明確なるヴィジョンを掲げ、確実にそれを実現するべく、一歩ずつ結果を出しているつもりだった。
確かに手応え自体はあった。それに伴う結果も反応は良かったと記憶している。ただ、上手い具合に思ったような結果に繋がらなかったことだけは悔しいとは思う。
どこがいけなかったのだろう?
そんな自問自答だけが延々と繰り返されていた。
そこから先は、自分の期待した通りの結果が得られにくくなってしまった。企画書を作成した時点では完璧な計画だと思っていても、実際に動かしてみると何かしらのトラブルが必ず起こってしまう。想定内の不備なら対処も出来るものの、どうしたことか、必ず想定外のところでミスが発覚してしまうのだ。
それでも、最初の頃はただの偶然だと思っていた。
ただ、こう何回も続くと、この計画自体が欠陥のあるものなのではと疑われるようになってしまったのだ。
そうなってしまうと落ちていくのは信頼で、いつしか私の提案する企画書は審査に通りにくくなってしまっていた。
何故こうなってしまったのか。
最近ではそればかりを考えてしまう。
成功し続ける事が出来ていれば、今頃迎えた未来は明るく華やかなものだっただろう。
しかし、目の前にある現実は、底辺にまで落ちてしまった信頼を回復させようと躍起になっている、どこまでも惨めな自分の姿。何もかもが嫌になり、自暴自棄になりそうになったこともある。
それでも、必死に努力し続けているのはきっと、未だ諦めたくないと藻掻いているからだろう。
いつかその努力が実ることを信じていたい。
きっと誰かに認められる日が来るんだと思って頑張りたい。
そうやって自分を追い込んでギリギリまで頑張った結果、ついに私の中で何かが切れる音がしたのだった。
目の前が真っ暗に染まるのは、心が上げた悲鳴に応じて身体が機能を停止したからだ。
大きく傾いた世界と、左肩に伝わる強い衝撃。
失った平衡感覚が、今の状態が正常ではないことを嫌と言うほど物語っている。
そこから先は、もう、どこまでも真っ逆さまに落ちるしかなかった。
必死に藻掻こうと腕を伸ばしても、誰もその手を掴んではくれない。
結局のところ、どんなに良い顔をしても相手は他人。都合が悪ければ助けてくれる人間なんて一人も居ない。それが私に用意された現実。
諦める。という選択肢を選ぶことを決めたのは、心が悲鳴を上げることにも疲れてしまった頃。何もできない状態がずっと続き、廃人のようになって始めて、私は努力することを諦める決断を下した。
今、こうして。
窓の外に広がる青空を見て私は思う。
数日前までの陰鬱な雨は今までの私で、今広がった青空に向かって花を咲かせようとしているタチアオイがこれからの私でありたい、と。
抱いた夢は虚しく散ってしまったが、私はまだ生きている。
死ぬ事を選べなかった敗北者でも、まだ何かできることがあるのかも知れない。
そう考えると、自然と表情が緩んだ。
ノートの上に走る安っぽいボールペンは、私が思った詩を綴る。
それは独りよがりの自己満足かも知れないけれど、私の中から零れていく想いを乗せ、一冊の詩集になれば良いと思いながら。
そしていつか。小さな実りでも構わないから、もう一度だけ。結果というものが出せることを願う。
たった一人でも良い。
「私」と言う存在を見て、手を差し伸べてくれる誰かに、この言葉が届けば良いと願ってしまうのだ。
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