第135話 煙

 その煙は、何でも願い事を叶えてくれるらしい。

 まるで魔法のランプを擦ると、煙と共に魔神が飛び出し願いを叶えてくれるとでも言うように、小さなものから大きなものでも、分け隔て無く実現するのだそうだ。

 それならば是非とも、その恩恵にあやかりたいと。

 そう願ってしまうのは、人として当たり前のことなのだろう。

 だからこそ、そんな信憑性の無い噂話を信じたくなってしまったのだろう。少し考えれば、それが実に現実的では無い話だと分かるはずなのに、そんな根も葉もない話に縋り付きたくなるほど、余裕というものが持てなかったかも知れない。多分、あの時は正気ではなかったのだろう。

 そんなよくわからない煙の噂なのだが、その話を聞かせてくれたのは、部署の異なる会社の同僚である。

 彼とはそれほど仲が良いわけでは無いが、飲み会の場では、他のメンバーよりも多少会話が多いという感じ。所謂『日陰者』と呼ばれる者同士、どこかしら親近感を覚えるって言えば分かりやすいかもしれない。

 そんな彼から聞いた内容は、このようになっていた。


「何でも願い事を叶えてくれる、不思議な煙っていうのがあるらしいんですよ」


 その煙がどこから出ているのか、どこに行けば見ることが出来るのかは分からないんですけど、ある人に会うことが出来れば、その人がその煙の元に連れて行ってくれるんだそうです。

 その人が何をしているのかは、人によって言う事が違うので何とも言えないのが正直なところですが、どうやら主に占いを専門に扱っているみたいなんですよ。場所は日によって変わるらしいので、出会えるかどうかは本当に運次第って感じみたいですけどね。ただ、SNSとかで目撃情報は上がるみたいなので、定期的にチェックさえすれば、見つけることは不可能では無いと聞きました。

 実際、その人に出会って煙を見たって言う人が何人かいるみたいです。

 ほら、SNSで検索すると何件かヒットするでしょ?

 だから、その人自身は確かに存在しているリアルな存在には違いが無いと思います。

 で、その人にあって煙を見せて貰う方法なんですが、どうやら合い言葉が必要みたいなんですよ。

 その合い言葉っていうのが、どこにも情報が無くて、どういう言葉なのかが分からないんですけど、とにかくその言葉を言えば、その人が煙の元へと案内してくれる、と。そういう感じになってるらしいです。


 酒が入っていることで普段よりも饒舌に話す彼が、特に信じている風でも無いオカルトの話を楽しんでいる。彼が日陰者なのは、こういうオタク気質な部分が大きく関係しているのだろう。この手の話題を楽しんで聞いてくれる人なんて、中々見つけることが難しい職場なのもあり、普段からそう言う話題を言いたくて仕方が無かったのかも知れない。

「僕はそれほど信じてる訳じゃ無いんですけど、そう言うのって、本当にあったら面白いですよね」

 嵩が半分まで減ってしまったアルコールを、勢いよく傾けながら彼は笑う。

「本当にその人に出会ったら、そんな煙を見てみたいと思いますか?」

 空っぽになったジョッキを脇に避けながら、追加のアルコールを注文した後で手を伸ばす串盛。誰も手を付けていないためすっかり冷めてしまったそれを頬張りながら、彼は更に言葉を続ける。

「僕は見てみたいとは思いますが、煙なんかで願いが叶うなんて都合の良い話だと思いますけどね」

 それでも、一攫千金で会社を辞めたいとか言ってしまっているくらいだから、相当酔っているのかも知れない。

 そうやって中途半端に与えられた情報は、ずっと心の隅に引っかかったまま、暫くが過ぎたのだった。


 その日は朝から憑いていなかったように思う。

 携帯のアラームがセットしていた時刻通り起動せず、久し振りにやらかした大遅刻。出社した瞬間、直前まで行っていた作業にトラブルが発生したことを知らされ、昼休みを返上でひたすら処理に追われた。昼飯を食べるタイミングを失った腹が、食い物を寄越せと訴えるが、それどころでは無い状況に苛々が積もる。漸く忙しさから解放された頃には、とっくに業務時間の終了を通り越してしまっていて、残業時間がカウントされてしまっている始末。

 それでも、ノー残業なんて訳の分からないことを謳っているせいか、切りの良いところで作業を切り上げさせられたせいで何とも中途半端な時間に会社から放り出されてしまったのだ。

 こうなったらもう、夕飯を作る気力も無い。

 仕方が無いと立ち寄ったコンビニで適当な弁当とビールを買うと、疲れで肩を落としながら帰路を急いだ。

 繁華街を抜けると少しだけ闇が強くなるのは人気が少なくなるからだろう。街灯に群がる虫が、忙しなく羽を動かし宙を舞っている。そんな光景をぼんやりと眺めながら足を進めていると、ふと、その存在に気が付いたのだった。

「占い…………師?」

 そこに在るのは占いと書かれたブース。シャッターの下りた店の前で、黒いパーカーを羽織った男がフードを深く被りそこに座っていた。

「占いかぁ」

 特に興味は無いし、疲れていたからそのまま通り過ぎようと足を速めると、意外なことに、彼の方から私に声をかけてきたのだ。

「煙。見てみたくない?」

「え?」

 突然の声かけに思わず足を止めてしまう。

「煙。興味あるんでしょ?」

 占いブースの奥に座る彼は、そう言って口角を吊り上げた。

「でもそれ、ただの噂だろ?」

 興味があるかと言われたらもちろん「ある」のだが、今日はとても疲れている。そんな気持ちから、嫌そうに表情を歪めると、「噂なんかじゃないよ」と言葉を返された。

「でも、合い言葉があるんだろう?」

 同僚から聞いた話だと、煙に案内して貰う為には合い言葉が必要だと。確かそんな話だったはずだ。

「いや。要らない」

 だが、彼はそれをあっさりと否定してしまう。

「だって、アンタは必要無いから」

 そう言った後、彼は椅子から立ち上がり、こっちだよと歩き始めてしまった。

「……………………」

 私に提示されたのは二つの選択肢。この胡散臭い話を信じて彼に付いていくか、彼の事を無視して帰宅するか。暫く迷った後、結局勝ったのは好奇心の方だった。

「そう。やっぱりそうなるよね」

 彼は小さな声でそう呟くと、商店街の路地へと入っていく。見失わないように慌てて後を追い、どれくらい歩いたのだろうか。

「…………ここは?」

 気が付けば、一件のスナックの前に立っていた。

「秘密」

 先に彼が扉を開き、どうぞと私を招き入れる。

「ぼったくりじゃねぇよな?」

 思わずそんなことを聞いてしまったのは、そこが安全なのかどうかが分からなかったからだ。

「大丈夫。そんな店じゃないから」

 何かあったら賠償金、請求して良いよ。そう言って彼が入るようにと促す。訝しがりながらも、私はその誘いに乗って店の中へと足を踏み入れた。

「なぁ、ここ、何でこんなに暗いんだ?」

 背後で閉まる扉の音を聞きながら、闇に染まるその空間に対して抱いた疑問を素直に口にする。

「暗い方が煙はよく見えるでしょ?」

 ほら、よく、目を凝らして。

 言われたとおり目の前の闇を注視すると、うすぼんやりと広がっていく煙の存在に気が付き驚いた。

「これって…………」

「そうだよ。願いを叶える煙。お兄さん、知りたかったんでしょ?」


 私は彼に何も伝えていないはずなのに、何故彼はそのことを知っているのだろう。

 彼が占い師だから分かる事なのだろうか。

 そんな事を不思議に思いながらも、目の前に現れた噂の現象に、つい魅入って夢中になってしまう。

「この煙って、本当に願い事を叶えてくれるのか?」

 もし、これが同僚に言っていた噂の煙だとしたら、どんな願いでも叶えてくれる夢のような状況なのは間違い無い。

「うん。何でも願いを叶えてくれるよ」

 彼は私の問いに対して即答で返す。

「本当にどんな願いでも叶えてくれるんだよな?」

「そうだね」

 その言葉の真偽をこの時に考えておけば良かったと。それを後悔するのはずっと後の事になるだろう。

「それじゃあ……」

 この時の私は疲労からくる疲れのせいで、正常な判断が出来なかったのかも知れない。

 ゆらゆらと揺れる煙にむかって呟くのは、日頃から叶って欲しいと願っていた様々な夢。大金を手にしたい、こんな事をやりたかった、こいつが嫌いだ、こういう所に行ってみたい。次から次へと思い付く全ての願望を、矢継ぎ早に煙に向かって宣言していく。

 煙はと言うと、願いを言えば言うほどその色を濃くし、段々と視界を遮っていくのだ。

 気が付けば、周りは真っ白な煙だらけ。その中で、私は一番最後に頭に浮かんだ願いを、ゆっくりと呟いた。


 …………。

 誰も居ない空きテナント。

 空っぽの部屋に立つのは一人の男だ。

 男は真っ黒なパーカーを羽織り、深くフードを被って足元を見つめている。

 その視線の先に転がっているものは、オレンジ色のコンビニのレジ袋。まだ中身の入ったままの弁当が、無造作に投げ出されていた。

「本当に欲深いんだから」

 弁当箱がはみ出たコンビニ袋を拾い上げると、彼は呆れたように笑ってみせる。

「確かに願いは叶うんだろうけどさ。それが現実で叶うなんてこと、俺は一言も言ってないよね?」

 誰も居ない空間に向かってそう呟くと、彼はゆっくりと店の入り口の扉に手を掛けた。

「回収、完了」

 ドアの隙間から差し込む外灯の光。うっすらと店内を照らすそれは、一部だけ光りを吸い取られ妙な影を映し出す。

「良い夢、見れるといいね」

 取り残された影は何も語らない。

 ただ、空気に混ざるようにして一筋の煙だけが、ゆらりと揺らめいただけだった。

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