第134話 父親
好きだった女性に必死にアプローチして恋人になった日から数えて、どれくらい経ったのだろう。
緊張感が漂う分娩室。彼女の辛そうな声が響く度、何もできない私はただ、狼狽えることしか出来ない。初めての出産で不安なのだろう。彼女は縋るように私の手を握り、顔を真っ赤にしながら一つの命を生みおとすという行為を頑張ってくれている。それに応えるように私はただ、「頑張れ、頑張れ」と呟きながら、恐怖と不安で涙を流していた。
子供が出来たと言うことを嬉しそうに報告してくれた彼女のことを、愛おしいと思いながらも大丈夫だろうかと不安に感じたは否定出来ない。新しい命が授かったことに対して背負う責任の重さが、まだ未熟だった私にとってはとても苦しくて仕方が無かった。それでも、それは二人が望んで迎え入れたものなのだ。色々と悩み、話し合い、時にはぶつかり合って下した決断は、私の覚悟と勇気を持つのには十分な時間だったのかもしれない。
そして今、私たちはこの時という瞬間を迎えている。
誕生という奇跡が綺麗だなんて誰が言ったのだろう。
実際は余裕なんてなく、ただ、ただ、怖くて仕方が無い。
どんなに虚勢を張ったって、どんなに自分を強く見せたところで、大きなお腹を抱えながら大きく健やかな芽吹きを育て上げた母親に勝ることなど出来るはずがない。
なんだって自分はこんなに無力なのだろう。
母体と子供の時間が長くなれば成る程、何事もなく無事にこの儀式が終わることを祈ることしか出来ない自分の無力さを憾んでしまう。
そして…………ついに、その時が終わりを迎える。
分娩室一杯に響き渡る大きな産声。
永遠とも感じられるほど長かった時に終止符が打たれ、そこに居る人間が安心したように表情を緩めた。
「おめでとうございます」
そう言って我が子を抱えて微笑むのは看護師の女性。主治医は彼女の処置を急ぐように声をかけながら手を動かしている。
「…………あ…………ありがとう…………ございます…………」
彼女よりも先に我が子を抱くのは怖いと緩く首を振ると、足の力が抜けてしまった私は、力なくその場に座り込んでしまった。
「それでは、お父さんはあちらでお待ち下さい」
看護師に促されるようにして廊下に出て、備え付けのベンチに崩れ落ちるように腰をかける。
立ち会っただけの私でもこれ程の疲労を感じているのだ。我が子を産み落とした彼女の負担は更に大きなものに違い無い。
「ありがとう……ありがとう……」
その言葉を直接本人に伝えることはまだ叶わないが、有ったことも無い神に感謝するように同じ言葉をひたすらに繰り返す。それが、今、ここに、新しい家族が誕生した瞬間だった。
彼女と子供と、そして私。何の変哲も無い普通の家庭だったが、それでも私にとっては確かにかけがえのないものではある。お陰様で母子ともに健康そのもの、子供はすくすくと成長し最近では大分生意気な口を聞いてくるようになった。
もちろん、毎日が平穏というわけではなく、時には叱り、喧嘩をすることもある。それでも、家族仲は良好で、笑顔の絶えない二人の存在がとても温かく有り難い。
二人の事をずっと守っていきたい。誰よりも幸せにしてやりたい。
そんな気持ちから、私はがむしゃらに働いた。少しでも、生活が豊かだと感じられるように必死に。
その甲斐があってか、同年代の家族より早くマイホームを手に入れることが出来たし、貯金も大分貯まったことで生活のゆとりはかなりある状態。贅沢が出来るような環境になったにも関わらずそこまで派手な生活をするような二人では無かったから、たまの休みには羽を伸ばすために遠くへ旅行に行くことも積極的に行ってみることにした。
増えていく写真とアルバムには、常に彼女と我が子の眩しい笑顔。
ああ。父親になって良かったな、と。心からそう感じられる瞬間がとても幸せだと感じられる。
子供に手が掛からなくなった頃には、夫婦二人だけの時間というものも少しずつ取れるようになってきた。
それは小さな時間ではあったが、たった数本のアルコールを傾け、即席で作ったつまみを楽しみながら会話を楽しむだけでも嬉しくて仕方ない。
そうやってずっと、末永く幸せは続いていくものだと。
そう信じて疑う事をしなかった。
子供が成人を迎える頃、私はその違和感に気が付いた。
今まで我が子だと思っていたものが、時々気持ちの悪い化け物に見える瞬間があるのだ。
働き過ぎて疲れているんじゃないと心配されるから、有休を取りしっかり休んだ事もある。
気持ちが不安定になっているのかと疑い心療内科にかかったこともあった。
それでも、その違和感は、日に日に大きくなっていくのだ。気のせいではない気がする。
具体的に何がと言われると説明に困るのだが、最近は、ただ、ただ、子供という存在が怖くて仕方が無い。
そんな恐怖を感じていることを悟られないよう、必死に繕う笑いの仮面。
あの子はそんな私の怯えに気が付いて居るのだろうか。
それにしても、何故こんなにも我が子に恐ろしさを感じてしまうのだろう。
そんな疑問の答えは、ある日突然現れた。
それは一冊の日記帳。
どうやら妻のものらしいそれを、気付かずページを捲ってしまう。
日付は随分と古く、丁度彼女が妊娠した頃のものらしい。
その日記には、こんなことが記されていた。
『妊娠してしまった。多分、あの人の子供だとは思うけれど、本当に彼の子供なのかが分からない』
その言葉を見た瞬間、私は彼女に裏切られているのかと頭にきた。
しかし、日記を読み進めていくとその内容が実に奇妙だという事に気が付いたのだ。
『私は彼としか経験がないのに、何故かこのお腹の中に居る子が彼の子だとは思えない。彼の子であって欲しいと願っているのに、その確証が得られないのはどうしてだろう』
彼とは多分、私の事を指しているのだろう。経験が私としか無いと断言しているのならば、あの子は確かに私の子と言うことになるはずなのに、何故こんなにも不安がっているのだろうか。
まさか。
そんな可能性を考えたが、当時の記憶を辿ってみても、彼女が誰かに襲われたなんて話は聞いたことが無い。私に気を遣って黙っていたのだろうかとも考えてみたが、彼女の両親もそのことは知らなさそうなのだから、その事実は無いと考える方が自然だろう。
『この子…………一体何が入ってるの?』
その一言を見た瞬間、私は背筋が寒くなるのを感じた。
誰のではなく何がという表現は明らかにおかしいと感じる。
「父さん」
気が付けば、部屋の入口に我が子が立っている。
どうみても我が子なのに、何だか妙に心がざわついて仕方が無い。
「どうしたの?」
その言葉に「何でも無い」と答えようと口を開くが、上手く言葉が発せず口ごもってしまう。
「父さん」
そう言って吊り上げられた口角は、楽しそうに弧を描いた。
この子は、一体…………誰の…………子なんだ…………?
私の子であって欲しい。
私たちの子であることを信じたい。
だが、一度抱いてしまった疑心を拭い去るには余りにも遅すぎる。
「お前…………本当は…………」
その言葉を言ってはいけないと言い淀むと、私は急いで口を噤む。
「父さん?」
「いや。何でも無い」
開いて居た日記帳。
それをそっと閉じると、私は気付きかけた真実から目を背け、それ以上は考え無いことを決め部屋を後にしたのだった。
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