第136話 思慕
そっと見守るだけで良かった。
この想いを伝えるつもりなんて始めから無かったから。
思い人と私との距離は決して縮まることのないものだと、私自身がよく分かっていた。
だからこそ、影ながらその人の幸せを願い見守る事だけが、私の喜びだったのだ。
それを不幸だと思う人も居るだろう。
それでもこれは身分違いの恋というもの。あの人に気持ちを伝えることであの人が不幸になるのであれば、何も言わぬままの方が良い、と。そういう恋があっても良いのではと思い込もうとしていたのかもしれない。
でも今は、それをとても後悔している。
何故なら、もう……二度とその人と会うことが出来ないからだ。
どうして私は、いつでもあの人に会えると勘違いしていたのだろう。
運命なんて、どこで変わるか分からないものなのに、その平穏がずっと続くものだと疑う事をしなかったのは何故だろう。
こんなにも恋い焦がれても、その人の面影を探すだけ。
そこにあの人の姿は無い。
そのことが、今、とても、寂しいと感じている。
もし、あの時に自由を掴むことが出来ていれば、未来は変わっていたのだろうか。
私が消え、あの人が生きている未来を無意識に考えてしまう。
できる事ならばあの時に戻って、その先にある未来を変えたいと願うのに、通り過ぎた時を過去に戻す事は出来ない事も理解している。
だからこそこうやって、後悔し続ける事しか出来ない自分が不甲斐なかった。
過ぎてしまった時間にあるのは、美しい思い出だけだ。
それが今、ここに居る私に語りかけることは無い。
そしてそれは、少しずつ、少しずつ、色褪せて、消えていってしまう。
そのことが嫌で仕方ないせいだろうか。
いつしかその記録は、私の都合の良い捏造へと変わっている事に気が付いた。
あの人が私に笑いかける。
あの人が私においでと手を差し出す。
あの人が私を大切だと抱きしめてくれる。
そして…………あの人が、私に愛おしいと口付けてくれる。
そんなこと、あの人が生きているときには一度も叶った事なんて無いのに。
あの人の止まってしまった時間より後の記録なんてどこにも無い筈なのに、私のなかではあの人の時間はとまる事無く動き続けているのかも知れない。
それでもそれは、やはりどこかしらおかしい部分が存在しているのだ。
私の知らないあの人のことを、私が再現出来る筈なんてないのだから、それも当たり前の事。
それでも私は、そんな偽りの幸せに溺れていたかった。
それほどにまで、私にとってあの人は尊い存在だったからである。
今年もまた、この季節がやってくる。
巡り巡る四季の中で、最も切なくて悲しい季節。
どうせならば、いっそのこと、今日が雨だったら良かったのに、と。
それでも、その悲しみを嘲笑うかのように、空はとても綺麗な青。
真っ白な雲がゆったりと風にながれて去って行く。
ゆらゆらと揺れるのは真っ直ぐに伸びる緑の葉で、その先に停まるショウリョウバッタが、長い触覚を揺らしながら風を受けていた。
照りつける太陽が肌を焼く。その痛みがまるで、あの人を守れなかった私を責めるかのように苦しい。確かに私はここに居るのに、何故あの人だけがこの場所に居ないのだろう。歩く度に足の裏に刺さる砂利の痛みにも涙が滲む。
陰鬱な雨の時期が過ぎ去ったばかりなのに、そんなことを忘れるかのような良い天気に誘われた蝉が、少しずつその鳴き声を大きく広げていく事も気が滅入って仕方が無い。
この時期は一番過ごしやすいと言われているはずなのに、この時期にあなたが居ない事が悲しいのだという事を、あなたはきっと知らないだろう。
どこからともなく香る甘い月桃の香りは、消えてしまった大切なものを偲ぶために燻る煙によるもの。
私は未だ、ここに囚われどこにも行くことが出来ないまま。
いつ、あの人の元へと行けるのかを思いながら、未だ葉の上に停まったまま動こうとしないショウリョウバッタを眺めている。
ショウリョウバッタはいつまでここに居てくれるのだろうか。
私の悲しみを聞いて欲しいと口を開きかけた、と、同時に、大きな羽を広げて飛んで行ってしまう。
「あ……」
それほど長く羽ばたく事は出来ないのかも知れない。
それでも、その場所から飛び出していくことの出来る羽を持つそれが、とても羨ましいと感じてしまう。
あの人にその羽があれば。
そうすればあの人は、未だこの場所に在ることが出来ていたはずなのに。
いつの間にか少しずつ日が傾き始めている。
今日、と言う日も、後数時間で終わりを迎えるのだろう。
結局、あのショウリョウバッタがどこに消えてしまったのかを見届けることは出来ないまま。
目の前で揺れる青い草に溶け込み消えてしまった。
「ごめんなさい」
その言葉は自然と口から零れ出た。
「守れなくて、ごめんなさい」
もう、受け取る人のいない懺悔を、何度も、何度も、繰り返す。
「あなたの傍に居て、ごめんなさい」
胸を締め付けるほどの悲しみで声が上手く出ないのに、涙が零れて落ちないことがとても切ない。
「あなたのことを、好きになって、ごめんなさい」
見守ることだけで良かった。
好きだと伝える気も無かった。
何故ならそれは、叶わない恋だと分かっていたから。
「あなたの命を、奪ってしまって、ごめんなさい」
それでも、私はあの人の傍に居るべきではなかったのだ。
声にならない声を上げて私はその場に泣き崩れる。
漸く追いついてきた感情が、引き金を引き溢れ出して止まらない。
私があの人の傍に居たせいで、あの人はこの場所で消えてしまった。
あの人は消える事を決して望んで居たわけではないのに、私があの人の未来を奪ったのだ。
あの頃とは異なり、今はこれ程美しい色に溢れているのに、あの人の目にそれが映ることはもう無い。
私、という存在があの人に恋をしたせいで、あの人の時間は、あの日を最後に止まってしまったのだから。
「ごめんなさい」
もう一度小さく呟いて、私はゆっくりと立ち上がる。
もう暫くすると、優しい月と星の光で当たりが静かに照らされるのだろう。
私の足下にあるはずの影は無く、代わりに私のつま先がゆるやかに空気に溶けて混ざり合う。
「あなたの幸せを願っていたことだけは、嘘では無いんです」
その言葉を最後に、私はこの場からかき消えてしまうだろう。
未だに行けない向こう側。私はいつまで彷徨い続けなければならないのだろうか。
蝉の声が寂しく響く。風に乗って鼻を擽る月桃の香りが、柔らかに空気に溶け、消えていった。
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