第128話 梅雨
『今年の梅雨明けは例年より早くなるかもしれませんね』
朝、ニュースでそんな言葉を聞いた気がしたのは気のせいだろうか。
窓の外を見ると、外は凄い雨である。梅雨明けとは全然縁が無さそうな空模様に、思わず深い溜息が零れてしまう。
確か、今年の梅雨入りは去年よりも早かったはずだ。
過ぎるように去って行った春の直後に、突然の梅雨前線が到来で、連日雨が続いている。
もう一ヵ月以上も雨だというのに、何を以て『例年より早く梅雨明け宣言が出来る』と言ったのだろう。全く以て不明過ぎる。
それでも、季節は巡るもの。毎年決まって訪れる雨期は、タイミングこそ前後するが、必ずそれがやってくる事だけは変わることが無い。まるで、神が決めた約束事のように、一度も破られることの無い世界のルール。そこで生きる者達は、ただ、この時期が過ぎ去ってくれる事を静かに願うだけなのだ。
この雨を恵みだと喜ぶものも確かに居るのだろう。それでも、こうも長く雨模様が続けば気が滅入るのも仕方が無い。
もう、随分と長い間太陽を見ていない気がする。
そろそろ、日の光が恋しくて仕方が無かった。
帰宅するまでに雨が止むことを祈っていたのに、結局はその願いが叶うことは無い。
建物の中で降り止まない雨に対して感じる苛立ち。バケツをひっくり返したなんて表現は、とっくに通り越してしまっている。大量の水が地表に落ちる度、大きな音を立てて上がる水飛沫。道路は既に冠水し、大量の水が溢れ出しちょっとした川が形成されてしまっていた。
どうやって帰宅しようかと考えて思いつくのは、家族に連絡すること。
『迎えに来て欲しい』
簡易的なメッセージだけを作成しアプリのチャットに投げて暫く待つが、忙しいのだろうか。全く既読が付かずただ時間だけが過ぎていく。
ぽつり、ぽつりと減っていく人影とより強くなる静かな寂しさ。
相変わらず、雨は降り続いていた。
何度目の溜息を吐いた頃だろうか。
待ちくたびれて思わず零した大きな欠伸。目尻にうっすらと滲む涙を手で乱暴に拭うと、もう一度だけ先程と同じ無い様のメッセージを家族に送る。
完全に自分の都合だと分かっては居るが、これ以上待っていることには耐えられない。
それほどにまで、感じる退屈が鬱陶しくて仕方が無い。
暇つぶしにと起動したゲームアプリも、バッテリーの消耗を抑えるために長時間は遊べないし、読書をするなんて趣味も無いから暇つぶしの方法が見つからない。返事の返ってこないメッセージアプリの画面をぼんやりと眺めているが、やはり既読通知が付く気配は無かった。
「……どうしよう」
こうなってしまうと完全にお手上げだ。自分の脚で帰宅するのが一番現実的な選択肢なのだろうが、すんなり家に着くかどうかは別の話。現に、クラスメイトの殆どは家族の迎えでこの建物から姿を消していったわけだし、この雨の中、歩いて帰宅したいと思う酔狂な人間は残念ながら居るとは思えない。
携帯端末のディスプレイで確認した時刻は午後四時を回るかというところ。幸いにも夜間授業のあるこの学校は、まだ門を閉ざす気配は無い。
「……図書室にでも行くか」
滅多に立ち寄らないスポットだが、今はとにかく座りたい。その一心で取りあえず図書室に向かうことに決める。
薄暗い廊下をひたすら進む。いつもならば人の気配で賑わっている場所も、生徒がいなくなればこんなにも静かで耳が痛い。雨のせいでいつも以上に薄暗い廊下はやけに不気味で、自分の知らない異空間に来てしまったような錯覚を覚える。
「……………………」
それは、視界の端に偶然映り込んでしまったものだったのかも知れない。
一歩脚を踏み出す度、それは窓の外でゆっくりと移動する。こちらの歩調に合わせて、少しずつ、少しずつ。
降り止まない雨のせいでシルエットしか見えないのが幸いだが、それは決して見てはいけないものだという事だけは何となく分かった。
とても大きく歪な塊。
それが動く度足下が揺れ、平衡感覚を失いそうになってしまう。
何故、それは付いてくるのだろう。
なるべく窓の方を見ないようにしながら、必死に考えを巡らせる。
自分が何かをしたなんて、そんな覚えは一切ない。
ただ、降り止まない雨のせいで帰れなくなったから図書室に移動しようと。そう思って廊下を歩いているだけだ。
家族から迎えに行くという連絡さえ貰えれば、この廊下を歩く必要も無かったのに。
薄暗い廊下を進む度、大きく揺らぐ足下が気持ち悪い。
ドスン、ドスン。
それが前に進む毎に、足の裏に伝わる感触は柔らかいグミのようなものへと変わっていく。
「……これは、夢……なんだ……」
そうだ。きっとこれは夢なんだ、と。冷たい汗を流しながら必死にそう自分に言い聞かせ、目の前の扉を開くことだけを考える。
全ては雨のせいだ。
こんなにも雨が降っているから、悪いんだ。と。
帰れなくなったことも、今感じている恐怖も。この陰鬱な雨による憂鬱が見せる幻想。だから早く現実に戻りたかった。
目の前には明かりが灯る図書室の扉。冷房をかけているせいで、出入り口の扉は閉ざされているが、その向こうにはまだ人の気配があるのは、扉の向こうから聞こえてくる談笑で分かる。
「早く……早く……」
焦りに急かされるようにして走り出す。足下が不安定なせいでもつれ、何度も転びそうになるが、何とか踏ん張りやっとの思いで図書室の扉に手を掛けた。
「助けてっ…………」
一体、誰に、助けを求めたのだろう。
全ては、雨が見せる幻想だというのに。
だが、その先にあるのは絶望。
開いた扉の向こう側。
それは嬉しそうに嗤うと、大きくて真っ赤な口を開きこちら側ヘと近寄ってきたのだった。
ああ。だから、雨なんて嫌い、なんだ。
早く、この梅雨が明けてくれれば良いのに……。
そう願ったところでこの現実は変えられない。
相変わらず雨は降り続いている。
そこで起こった出来事を、全て洗い流し消してしまうかのように……。
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