第123話 カビ
綺麗にしていたはずだった。
しっかり磨いて防カビ剤も使ったはずなのに、いつの間にか湧き出ている斑点が視界の隅にしっかりとある。
汚い、穢らわしい。
それがそこに在る事が、耐えがたい苦痛だと感じてしまう。
だから再び手を伸ばした。
強力な洗剤と、買ったばかりの掃除道具。ゴム手袋を嵌め、必死になってタイルを磨く。手を動かす度息が上がり、噴き出す汗が頬を伝う。それでも掃除を止められない。それほどにまで、それがそこに在る事が耐えられなかったのだ。
それが気になりだしたのは、今から遡ること数ヶ月前のことだ。
元々、そんなに掃除が好きというタイプでは無かった。
どちらかと言うとズボラで、埃や汚れが気になってきたら掃除をするというくらい生活環境に無頓着だった方だと思う。
だから、あの日も、特に掃除をしてやろうという気は全く無かった。
起床して怠い体を引き摺るように向かったバスルーム。家賃が安いこの物件は、トイレとバスルームが一体型になっている三点ユニットバスだ。当然、用を足そうと思うとバスルームに入る事になるのは当たり前で、廊下よりも数センチ高く上がったその部屋に、大きな体を押し込むようにして入る。
いい加減この狭さにうんざりしてはいるものの、中々引っ越しを決める勇気が無いのは、単純に金がないということと、両親に家賃の一部を立て替えて貰っている後ろめたさがあるからというのが理由だった。
「いい加減引っ越してぇなぁ……」
狭い空間に響く大きな溜息。体の中から不純物が流れ出ていく感覚に安堵しながら、ぼんやりと天井を眺める。
「…………ちっか……」
言葉の通りこのバスルームの天井はそれほど高い訳では無い。低身長ならば背伸びをしても手が届かないだろうが、生憎そんなに可愛いサイズではないせいで、少し腕を持ち上げれば直ぐにでも手の平が天井に届いてしまう。
「まぁ、バイト、あんまり増やせねぇもんなぁ……」
その言葉の通り、何も毎日遊んでいる訳では無い。それでも経済的に余裕がないのは、学費の一部と生活費を自分自身で賄っているせいだ。両親は家賃と最低限の学費までは面倒を見るといってくれたが、学業で使用する備品の全てを負担してくれるとは言ってくれなかった。
その辺は自分自身が納得している部分なので両親に文句を言うつもりは無い。ただ、必要な機材の価格が決して安い訳では無いため、稼いだ分だけ出て行くというサイクルを止める事は、まだ残念ながら出来ていなかった。
「ふわあぁぁ……」
深夜帯に組まれたシフトのせいで、ここ数日は寝不足気味。眠気を覚ます為に顔を洗うと、情けない顔をした自分と目が合ってしまった。
「…………ん?」
鏡の向こうに居るもう一人の自分。だらしがない格好で草臥れた状態は割といつも通りで変わらない。それなのに、何か妙な違和感があり首を傾げる。
「…………あ」
その正体を探ろうと鏡の中の虚像を確認すると、それが何であるのかと言うことに漸く気が付く。
「カビだ!!」
急いで振り返ると、ドア付近のタイルに存在している真っ黒なカビの塊。
「うわぁっ!? 最悪じゃねぇか!!」
慌ててバスルームから飛び出しキッチンシンクの下を漁って発掘したカビ除去剤。それを持って再びバスルームに戻ると、存在感を誇示しているそれに向かって勢いよく噴射する。
つんとする刺激臭に思わず涙が溢れるが、そんなことは気にしていられない。これでもかというくらいそこに薬剤を塗布すると、時間をおくため一度バスルームを出て窓を開けた。
「…………はぁ……」
何故あんなに大きなカビが出来てしまったのだろう。
外の風に当たりながらそんなことを考える。
確かに昨日まではあんなカビは存在していなかったはずだ。それに、あれほど大きなものなら、幾ら寝起きでもバスルームに入って直ぐに気が付くはずである。
それなのに、顔を洗うまでその存在に気が付かなかったのはどういう事だろう。
「…………何なんだよ」
考えたところで直ぐに答えが見つかる訳では無い疑問。もやもやした気分を抱えつつ、その日は風呂場に出来たカビを掃除して終わったのだった。
その日から、やたらと風呂場にカビが発生するようになった。
毎日カビが復活している訳では無いが、気が付いたらその範囲が広がっているという具合だ。
カビ自体を完全に根絶できる分けでもないからそれも仕方のない話ではあるが、気になるのはカビの発生の仕方と広がり方が普通と異なるということ。
少しずつ範囲を広げるのではなく、突然湧いて爆発的に広がっていく。そんな感じで、気を抜くと直ぐにバスルームが真っ黒になってしまうのだ。
そんなもんだから、家には常にカビ除去剤が数本常備され、一週間の半分はひたすらカビ除去に勤しんでいる始末。
いい加減、この状況にも嫌気がさしていると言うのに、引っ越す目処も経たなければ引っ越す軍資金も無い状態だ。何も出来ないまま、時間だけが過ぎてしまっている。
「くそっ! くそっ、くそっ!!」
擦っても擦っても消えていくことのない真っ黒なカビ。
除去すればするほど、カビに犯される範囲が広がっているような気がして虫酸が走る。
今日もまた、一日がカビと戦う事で終わってしまった。
漸くカビの姿が消え、綺麗になったバスルームで一人、虚しく掃除道具を片付ける。
後何日こんな事を繰り返せば良いのだろうか。
「……はぁ……」
疲れた。今日は早く風呂に入って寝てしまおう。
綺麗に洗った掃除道具を渇かすためベランダへと移動し、汗を流すべく再び戻るバスルーム。
「……なん……で……」
バスルームの扉を開けた瞬間、言葉を失い固まってしまった。
壁一面にあるのは真っ黒なカビ。
さきほどまで綺麗に磨いて全部除去したのに、一瞬にしてカビがそこに戻ってきてしまっている。
こんな事は有り得無いと状況を否定しながらも、目の前にあるカビに思わず後ずさり、その拍子にバランスを崩した身体が転倒し尻餅をついてしまった。
「……あ」
そこで漸く気が付いたのだ。
カビが在るのはなにも、バスルームだけではないという事実に。
どうしてこんなにもカビに侵されているのだろう。
少しずつ浸食を続けるカビから逃れるように這いつくばりながら、必死にその答えを考える。
「そう……か」
玄関まで辿り付いたとき、ふと、ある考えが頭を過ぎった。
「そういうことだったんだ」
ゆっくりと振り返ると、もう、部屋の全てが真っ黒に染まってしまっていた。
カビは相変わらずこちらに向かって範囲を広げ続けている。
だけどもう、気付いてしまった。
この場所に本当はカビなんて存在しないということに。
何故なら、このカビは全て……
「目の内側に存在しているってこと……なんだ」
カビに侵されたのは建物ではなく人間の方。
それならばと瞼を伏せると、視覚を全て遮断し、広がり続けるカビを闇の中に閉じ込めたのだった。
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