第122話 ポニーテール
母は髪の毛が長い人だった。
真っ黒で艶のある細くて綺麗なそれは、様々な形へと変化していく。
時には動きやすくカジュアルなものに、時には威厳を感じるエレガントなものに。
私は、そんな母の髪を弄る手つきを見るのが大好きだった。
真っ白な指先が、黒い絹糸のような髪を弄ぶ度、とてもドキドキとしたことを覚えて居る。
中でも一番好きな髪型はポニーテールで、サラサラと指の間から逃れようと揺れる黒が持ち上がり、一つにまとめられた後に見える白い項がとても印象的だった。
それほどにまで、母の艶やかな髪は美しいと感じていた。
今までの時間の中で、長い髪がトレードマークの母がショートカットにした記憶は一度も無いように思う。私はてっきり、母は髪の毛が長いのが好きなのかと思っていたのだが、私が高校に上がったとき、始めて髪の毛を伸ばし続ける理由というものを知った。
「あなたのお父さんがね、長い髪が好きだから」
本当はバッサリと切ってしまいたい。そんな風に呟き寂しそうに笑う母は、どこかしら諦めたような様子で。それが望んで居たことではないと言うことを教えられたとき、私は少しだけ残念だと感じていた。
それでも、母が髪の毛を短く切ることは無かった。
多分、父から嫌われる事を恐れていたのだろう。
私としては何故そこまで父に固執するのか理解が出来なかったのだが、母なりに何か理由があったのだろうと深くは考えないようにしていた。
正直に言えば面倒臭い。そんな思いもあったのかも知れない。
家に寄りつこうとしない私の父は、母が言うような良い人では無かった。
見た目はとても素晴らしい人間だったことは間違いないが、問題は中身の方で、私は家の中で父の姿を見たことが殆ど無い。
望まない結婚をしたと言うことを知ったのは随分と後の話で、父は両親の定めた相手と半ば強制的に結婚させられ子供を設けたということだった。
そのせいだろう。父には別の恋人が居り、常にその場所へと帰宅していたのは。
偶に家に帰ってきても、母のことは雑に扱い、私の事は空気のように無視をしている。どうしても家族の顔を合わせなければならない用事がない限り、父にとって我が家という場所は耐えがたい苦痛を伴う、檻の様なものだったに違い無い。
そんな風に思うのならば、いっそのこと、捨ててしまえば良いのに。
何度そう怨んだのかは分からないが、無力な子供に出来ることなんてたかが知れている。そうでなくとも、母が父を慕っている以上、私が二人の事に口出しする権利など一つも無かった。
そんな父だが、たった一つだけ母のことを気に入っているところがあった。
それが、母が大切にしていた髪。
そう。真っ黒で美しい絹糸のような髪の毛だったのだ。
母はそれを保ち続ければ父との関係を続けていけると信じていたのだろう。
だからこそ、好きでもない長い髪を毎日丁寧に手入れしていたのかも知れない。
そんな家族の関係が破綻したのは、私が働くようになって数年が経った頃だった。
突然父親が帰宅したかと思うと、唐突に母に対して突きつけた離婚届。
「こんな関係はもう終わりだ!」
そう言って出て行ってしまった父親の姿を、母は呆然と眺めていた。
母には父が彼女を捨てた理由が分からなかったのだろう。
だが、私は彼が母を捨てた理由を知っていた。
『お前は本当に、髪の毛だけは美しいな』
ヒントはその言葉に隠されていることも、私はずっと前から気が付いてはいる。
あの頃とは異なる母の髪の毛には、ちらほらと長い白が混ざるようになってしまっていた。
母は気を遣って黒く染めていたのだが、それでも完全に隠す事は難しい様で、それに気が付いた父に落胆され捨てられてしまった、と言うことなのだろう。
全くもって身勝手な話ではあるが、元々愛情なんて存在していないような関係だ。こうなることは当たり前だし、今でなくともそれは、きっと遠くない未来に必ず起こる事だったのだとは予想が出来て居た。
ただ、それを許せるかどうかというのは全く別の話ではある。
私たちは常に要らないものとして父に扱われてきた。
役場に届けて受理されたものには家族という形態がしっかりと認められているのに、始めから壊れてしまっているその関係を、修復しようと努力した事も当然ある。
それでも、一切の愛情を受けることが出来ず諦めることしか出来なかった私たちは、せめて笑いものにならないようにと偽りの仮面を被り続けることしか出来ず、随分と長い時間を費やしてしまっていた。
後戻りが出来ない所まで行き着いた感情は、吐き出し口を求めて暴れ出してしまっている。
だからこそ、私はそれを行動に移したのだ。母親に告げることなく、たった一人で。
父の暮らしているマンションは、我が家とは違って随分と無機質な印象を受けた。
後先を考えずに行動してしまったことは軽率だが、どうやって父に会おうかと考えていると、予想外にも父の方から私を部屋に招き入れたのだ。
浮気相手と暮らしていると思っていた部屋は随分と殺風景で、全くと言って良いほど生活感を感じられない。女性の気配を感じないことを不思議に思っていると、父はゆっくりと口を開きこんな事を語り出したのだった。
「もう、限界だったんだよ」
小さな音を立ててテーブルの上へと置かれるコーヒーカップ。ゆらりと揺れる湯気が、まだそれが冷めることのない熱を持っていることを物語っている。
「本当は別れたいだなんて思っては居なかったさ。それでも、もう、限界だったんだ」
今まで語れることの無かった父親の視点から見た家族という像。
望まない結婚と言う意味では、私の認識は間違っていないようだったが、驚くことに母の方が父に惚れていたのではなく、父の方が母に惚れていたのだと言う事を始めて知る。
「大切にしたい、大切にしたいって……何度も何度もそう思うのに」
どうしても、母をみていると強い衝動に駆られ、傷つけてしまいたくなってしまうのだと、父は泣きながらそう訴える。
「彼女の黒く長い髪を掴み上げ、顕わになった首に手を掛け殺してしまいたくなるほどに、愛おしくて仕方が無いんだ」
だからこそ、別れることを選んだのだと。そう言って何度も何度も許しを請う父の姿は、今まで見て居た威圧的なものなど微塵も感じられず、とても弱々しく小さなものとして私の目に映った。
「……気をつけなさい」
背中を丸め、震えながら漏らす小さな弱音。
「お前も私の息子ならば、分かるだろう?」
それが何よりも怖いんだと、父は言葉に詰まりながら必死に訴えかけてくる。
「越えてはいけない境界を越える前に、彼女から離れるんだ」
この人は一体、何を言っているのだろう。
「そうしないと、お前は一生後悔して生きる事になる」
言われた言葉を頭の中で何度も繰り返していると、ふと、私にも覚えが在ることだと言うことに気が付いた。
「……ねぇ、それって……」
気のせいか、私自身の言葉も震えている。
「…………っていう強い衝動のことを言ってる……のか……?」
そう問いかければ、父はゆっくりと頷き口を噤んでしまった。
「……そん……な……」
父は卑怯者だった。
母から逃れるために、強者であるふりをして、必死に自分の心を守り続けていたのだろう。
それでも、結局は母に勝つことが出来ず、尻尾を巻いて逃げ出してしまった。
でも、今となってはそんな卑怯者の父を責める気持ちには一切なれない。
何故なら、彼の言う通り、その衝動は私にも確かに覚えがあったからだ。
私は、母が髪を弄る姿が好きだった。
中でも一番好きなのは、彼女がポニーテールを結ぶときの動作だ。
真っ黒な絹糸のような綺麗な髪が隠していた白い項が顕わになるときに、何とも言えぬ気持ちになり目を逸らしてしまう。
顔が火照り早くなる鼓動。
それと同時に湧き上がる押さえきれないほどの加虐心。
ああ。そうか。
父はこれが怖かったんだ。
だからこそ、私たちから彼は逃げ続けるしか無かった。捕まってしまえばきっと、人としての道を踏み外してしまう事に気が付いていたから。
それを理解してしまった今、私は多分、父と同じ事を選択するのだろう。
私は未だ、人で居たいと切に願う。
「……なぁ、父さん」
そこで出した提案。それを父は断る事はしないはずだ。
「……そうか」
そうして、私と父は、始めて和解し親子となることが出来た。
近いうち、私は母を捨てる事になるだろう。
だが、それを選んだことを私は後悔することは無いと思う。
そうすることが互いの幸せなのだと、私は父の意見に賛同する。
互いに枷を外し自由になること。
多分、これが、私たち家族にとって、一番良い選択肢。
あの長い髪はもう見る事は叶わない。
だから母さん。
もう、髪の毛を伸ばし続けなくても良いんだよ……。
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