第120話 手首
手首についた大きなバツ印。
擦っても消えないそれは、幼い頃からずっとそこにあった。
勿論、自分で付けたわけでは無いし、いつからそこにあるのかも分からない。
ただ、その傷は確かにそこにあり、嫌でもその存在を主張してしまう。
だからあの子はそれを必死に隠した。
袖の長い服を着たり、リストバンドを着けてみたり。如何にもファッションであるよう自然に行うカモフラージュ。それに触れられないようにと気をつけながら、これがあの子のスタンダードだと言う事を少しずつ周りに刷り込んでいく。初対面の人からは好奇心からそれが何なのかを聞かれたりもするのだが、わざわざ話す理由もなければ、理解して貰う必要も無いため適当にはぐらかしている。
同情が欲しい訳では無い。
そんな気持ちも強いのだろう。だからこそ、それに触れられることは苦手だったし、その話題は無意識に避ける傾向があったのは間違いない。
それでも、そんな努力の甲斐があってか、関係が親しくなってくると誰も手首のことについて詮索しなくなっていく。このアイテムを付けているのがあの子という図式が成立しているのだろう。それほどにまで、あの子が手首を見せないことは『当たり前』で『自然』な事なのだ。
これが、あの子が覚えて居る手首の記憶。
確かにそれは、あの子の手首に刻まれた消えることのない刻印だった。
それは、桐箱の中に収められていた。
厳重に封がされたそれは異様な雰囲気の漂う物で、触れる事を躊躇う程、幾重にも札が貼られていた。
随分と古い物らしく、貼られたそれは経年劣化で随分と黄ばんでしまっている。糊が変質しているのだろうか。べたつきこそしなかったが、桐の表面に付着していた分は既に渇き、そこだけが濃い色へと変わってしまっていた。
全体的に風合いを感じるその箱の中で目に止まるのは、異質なほど真っ赤な真新しい一本の紐。何度も何度も重ね掛けし、外れないように複雑に絡み合う所を見ると、余程それを開かれたくないのだと言う事が嫌でも分かってしまう。
だから、この箱のことは見て見ぬフリをしていたのだ。
そもそも、こんな箱、明らかに存在自体がおかしい。見て居るだけで感じる不安に心がざわついてしまう。本当ならばこの箱自体を処分してしまいたいのにそれが出来ないのは、手放したことでさらに恐ろしいことが起きそうな気がして堪らないから。だからこそ、その箱は蔵の奥で誰の目にも留まらないような隅の方に押しやり存在を忘れてしまっていたのだ。
その箱を見つけたのは私ではなくあの子だった。
あの子が私の実家に興味を持ったのは、丁度夏休みに入る直前。出身が地方で交通の便が悪いほどの田舎だと言う事を人づてに知ったあの子から、「遊びに行ってみたい」と言われたのには驚いた。
面識はあるし、あの子の存在自体は知っている。それでも、普段から良く連絡を取るほど親しい訳でもなければ、郷里が同じというわけでもないため、当然始めは断った。
それでもあの子を実家に招待する事に決めたのは、あの子が論文にまとめようとしているテーマに協力してあげようという親切心からだった。
今考えれば、余計な事をしてしまったと後悔している。
あの時、どんな理由をつけてでも、私はあの子からの願いを拒否するべきだったのだ。
その箱は気が付いたらあの子の手の中にあった。
蔵の中で古い蔵書を探して居るときに、偶然見つけたのだという。
私は始め、その箱がなんなのかを思い出すことが出来なかった。
しかし、その箱に絡められた真っ赤な紐の存在が、消し去っていた過去の記憶を呼び覚ます。
「それは……」
それがなんなのかを認識した瞬間、私は無意識に動き出していた。
「返してっ!!」
突然上げた声にあの子は驚き目を見開く。
「ご……ごめんなさいっ……」
そう言って箱から手を離し顔を庇うようにして身を縮める。殴られるとでも思っているのだろうか。小動物のように怯えながら、あの子はだた私からの言葉を待っていた。
「……私の方こそ、ごめんなさい」
床の上に転がった箱を拾い上げながら、私は小さく溜息を吐く。
「大きな声を出して驚かせてしまったこと、申し訳ないと思ってる」
出来る事なら触りたくもなかったその箱に再び触れる日が訪れるなんて。そんなことを考えながらあの子の方へ視線を向ければ、こちらの顔色を窺うようにしながら「大丈夫」とだけ答えた。
「この箱、気味が悪いよね」
悪くなってしまった場の空気。居たたまれなさからそんなことを呟けば、彼女はそれに同意するかのように小さく頷いて見せる。
「悪趣味すぎるよ、こんなの」
それを片付けて一刻も早く視界から消してしまいたい。何処に有ったのかを思い出そうとあの子に問いかければ、向こうにあったと指を刺し、私が元に戻すと出される手。
「いいの、いいの。こんな気味の悪い物、触りたくないでしょ?」
そう言って断った。
はずだった。
「え?」
いつの間にその箱は、私の手から消えて無くなってしまったのだろう。
気が付けば箱があの子の手の中に在る。
「ちょっ……どういうこと?」
慌ててそれを受け取ろうと手を伸ばすのだが、あの子は震えながら「分からない」と答え真っ赤な紐に手を掛けてしまう。
「何やって……」
「分かんないの……」
するすると。魔法にかかったかのように綺麗に解けていってしまう真っ赤な真っ赤な一本の紐。
それが完全に解かれると、役目を終えたかのように床の上に転がり横たわった。
為す術もないまま私はそこに立ち尽くす。
あの子の手が一枚ずつ、箱に貼られた紙切れを破いていく。
まるでそれは、禁じられた秘密を暴くかのように、ゆっくりと、ゆっくりと解かれていく封印。
最後の一枚が完全に剥がされた後、ずっと閉ざされていた蓋が静かに開いた。
「あ」
その中には、手首があった。
それは真っ白で綺麗な女性の手。
ずっと長い事閉ざされていたはずなのに、まるで生きているかのようにみずみずしいそれは、今にも動き出しそうな程生々しい。
美しい。
そう思う反面、恐ろしいとも感じている。
この手首は一体何なのだろう。
その答えを必死に考えていると、あの子が泣きそうな声でこう呟いたのだった。
「ねぇ……私の、手。知らない?」
見ると、あの子の右手首から先が無くなってしまっている。まるで手品師に魔法をかけられたかのように忽然と、存在自体が消去されてしまっている状態。
「まさか!?」
嫌な予感が当たらなければいい。そう願いながら箱の中を覗き込むと、中に有る手首を掴み持ち上げて見た。
「なっ……」
手首についたおおきな印。それを見た瞬間、あの子が大きな悲鳴を上げる。
その印は幼い頃からそこにあった。まるで意味を持っているかのように。
そして、今日。始めてその印の意味が分かるときが訪れた。
この箱は喰らうもの。
印の付いた贄を、ただ貪欲に取り入れる。
多分、この子は選ばれたのだろう。
それは、ずっと前から定められていた皮肉な運命。
「ごめんね」
本日二度目の謝罪。
それは一体、何に対して呟いたものなのだろうか。
ただ、一つだけはっきりと言える事があるとすれば、この箱に囚われた者が私ではなかったということ。
嗚呼。良かった。
私はまだ、生きていられるんだ。
それを理解した瞬間、私は心の底から安堵した笑みを浮かべ胸を撫で下ろしたのだった。
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