第115話 乳製品

 健康を意識し始めたのは、定期検診の結果が思った以上に芳しくなかったからだ。

 確かに、普段から生活態度を気にすることはなく好き勝手にやってきたのだから、この結果は当然と言えば当然なのだが。それでも健康だと思いこんでいた以上、突きつけられた事実に落ち込まない訳がない。

「はぁ……」

 頭に過ぎるのはダイエットという文字。いい加減、その事実と真っ向から向き合うときが訪れたのかも知れない。

 それでも中々決断に至れないのは、この性格が災いしているのだろう。

 『面倒臭い』。

 そう。私は自他共に認めるほどの面倒くさがり屋。だから、いつまで経っても重たい腰を上げるタイミングを見失ってしまっていた。


「あんた、やっと起きてきたの?」

 キッチンへと顔を出すと、母親に呆れた顔でそう言われる。

「だらだら寝続けてると、本当にブタみたいになるよ」

「……はいはい」

 これは毎日言われるている小言。娘が可愛くないのかと腹は立つが、自分の体型を鑑みてもその言葉を言われるのは仕方ない状態だとは理解しているから口答えが出来ない。

「朝ご飯。食べるでしょ?」

 悪態を吐かれても、何だかんだと感じる母親の優しさ。暖かい朝食が食卓の上に並べられているのを見て思わず表情が緩んだ。

「ご飯多めでお願い!」

 その言葉を聞いた母親が大きな溜息を吐く。

「あんた、一体誰に似たんだか」

 母親の言葉通り、家族でふくよかな体型をしているのは私一人きり。父親はよく食べる人間ではあるが、痩せの大食いのため滅多に太ることはないし、母は適度に食事を取るタイプ。弟は育ち盛りだがスポーツをやっていることもあり体脂肪率は低いし、妹に至っては食が細いためそもそも太りようが無い。そんな感じだから、母親が思わずそう言ってしまうのも分からないわけでは無い。

「しょうがないじゃない。ご飯美味しいんだもん」

 顔は確かに両親や弟妹と似ている部分もあるのに、体型だけがみんなと違う私。その理由を一番知りたいのは自分なのに誰も答えをくれないのだから、答えられるわけが無い。

「ちょっとは運動したら?」

 みそ汁を汁椀によそいながら母親が呟く。

「頑張ろうとは思ってるんだけどさぁ」

 それを言われるのは正直辛い。嫌な事から目を背けてしまう癖が付いてしまっているせいか、都合が悪いことには耳を塞ぎ、空腹を満たしてくれる御馳走を楽しみに待つ。

「はぁ」

 毎日のやりとりだから母親はこれ以上小言を言うことを止めてしまった。

「いっただきまーす!」

 先ずは腹ごしらえが優先。早速飯椀を手に取ると、器用に箸で白米を掬い頬張る。ほんのりと広がる米の優しい甘み。こんなにお米が美味しいと感じられるんだから、本当に日本人で良かったと思わず笑顔。

 そんな至福を噛みしめながら、次々に姿を消していくのは、用意された料理たちだ。一度食べ始めたら手が止まらず、椀の中身が無くなると直ぐにお代わりを要求し、再び食べ始めてしまうから食欲が止まらない。

「…………ねぇ、アンタさぁ」

 そんな私の食事を見ていた母親が、唐突に冷蔵庫を開けてこう呟いた。

「物は試しだから、これ食べてみたら?」

「ん? 何?」

 食卓の上に置かれたのは一つのヨーグルト。

「ヨーグルト?」

「そう」

 パッケージは普通に市販されている物と同じデザインだが、品名は初めて見るものだった。

「これが何?」

「なんか、テレビで痩せるって特集されてる商品だったから買ってみたのよ」

 多分これは、母親なりの気遣いと苦肉の策なのだろう。少しでも娘の体型をなんとか出来れば。そんな気持ちで藁にも縋った。多分そう言うことだと思う。

「こんな物効くの?」

 生姜焼きの最後の一切れを片付けると、箸を置きヨーグルトのパッケージを手に取り眉を寄せる。

「効くか効かないかよりも、先ずはやってみなさい」

 効果どうこうじゃないの! そう一刀両断され、意義は認めぬという凄みで睨み付けてくる母親。

「……はぁい」

 その気迫に完全に負けてしまった私は、気の抜けた返事で両手を挙げた。

「まぁ、食べて痩せられるならいいか」


 この時はそれくらいの気持ちしかなかった。

 楽して痩せられるならラッキー。それ以上、深く考える努力をしなかった自分を怨んでももう遅い。


「あんた、最近痩せたんじゃない?」

 このような母親の上機嫌な声が聞こえるようになったのは、ここ数週間のこと。

「ヨーグルトの成果が出てきたって事かしらね」

 あの日からずっと続けているダイエットは、毎日小さなカップ一杯分のヨーグルトを食べること。手軽にできるのと、味を好みにカスタマイズ出来るお陰で気楽に始めたダイエットは、確かに宣伝の煽り文句の言うように効果があった。それは純粋に喜ばしいことだ。

「食事の量も少しずつ減ってきてるし、家計も助かるわぁ」

 母親の言葉通り、最近では以前よりも食べる量が減っている。数ヶ月掛けて緩やかに行われる変化ではあるが、我が家で一番エンゲル係数を上げていた私の食費が改善されるのだから、母親が上機嫌になるのも当たり前だ。

 確かにこれは、我が家にとっは喜ばしいことなのだろう。

 ただ、私自身にとっては、少しだけ疑問を感じる状況である。

「ヨーグルト一つでこんなにスタイルが良くなるんだから、こういう商品も捨てたもんじゃないわね」

 そう。私はヨーグルトを食べる事以外、何もしていない。食事も普段通りに取っていたし、運動も必要最低限より少ない程度。それなのに、ヨーグルトを食べ始めてみるみる体重が落ち始め、身体に付いていた脂肪が少しずつ消えて無くなってしまったのだ。

 そのこと自体は喜ばしいことでも、私に取って喜ばしくないことは、食欲の減退。

 以前は食べる事が何よりも幸せだと感じていたのに、このヨーグルトを食べ始めてから、殆ど空腹感を感じることが無くなってしまった。

「あんた、もっと痩せなさい」

 数字が増えた家計簿を見ながら鼻歌を歌う母親。

「そしたら貯金できるし、なんなら家族旅行だって行けちゃうかもしれないわね」

 そんな母親の隣で黙々と、圧倒的に量が減ってしまった食事を、私は食べ続けている。

「何でもっと早くこの商品に出会えなかったのかしら」

 最後の一口を食べ、冷えたお茶で喉を潤すと、私はふらつく足で立ち、使用済みの食器を片付けた。

「ねぇ、お母さん」

「なに?」

 シンクの中に食器を片付けた後、冷蔵庫の扉を開く。

「ヨーグルト食べて良い?」


 空腹感を感じている訳では無いのに呟いた言葉。

 それを聞いた母親は、嬉しそうに笑うとこう答えたのだった。


「カップ一杯分だけね」

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