第114話 髪ゴム
いつの間にか髪の毛が随分長くなってしまっている事に気が付き吐いた溜息。
普段から格好に無頓着な方ではあったが、ここ最近は忙しさを理由に美容室に行くことからも遠ざかってしまっていた。
何ヶ月も放置したままだった髪の毛は、今では随分と伸びてしまい、肩を少し超したところまで垂れてしまっている。動く度揺れるそれがとても鬱陶しくて仕方なく気持ちは憂鬱になった。
こんなに伸ばしたのはどれくらい前だっただろうか。少なくとも、ここ数年の記憶の中では思い出すことが出来ないのだから、久し振りであることは間違いない。
毛髪量が多いせいで髪の毛を伸ばすのが苦手。別にショートカットが好きというわけでは無いが、それでもロングにしないのには、そんな理由がある。気になってしまった以上、直ぐにでも切りに行きたいのだが、こんな時に限って立て込んでしまっている状態だ。美容室に予約を取る時間すら確保出来なさそうな状況が恨めしく思えた。
とは言え、この伸びきった髪の毛をそのままにしているのも気持ちが悪い。
「そうだ」
思い出したのは随分前に買った髪ゴムだ。デスクの引き出しの中にずっと仕舞いっぱなしで、使われるタイミングを失ってしまっていたそれは、黒い輪っかのシンプルなもの。それがそこにあることをよく思い出せたなと自分を褒めながら取り出すと、上手くまとまらない髪の毛を雑に束ねてゴムで止める。
「…………重い」
一箇所にまとめられたことで首回りは大分涼しくはなったが、その分重さが一点に集中してしまったため首への負担が大きくなってしまった。ただでさえ肩こりが酷いのに、これでは偏頭痛も出てしまうかもしれない。そう考えると更に気分は急降下。とにかく早く休みが欲しい。そしてこの髪の毛をバッサリと切ってしまいたい。手を動かしながら、そんなことを考えてしまうのも仕方の無い話である。
それでも、この髪の毛を一つに束ねることが出来るだけで、こんなにも作業効率が上がるのは素晴らしい。
「すいません! こっちの資料、お願いします!」
さっきまで気が散って上手くまとめられなかったデータ処理。髪をゴムで留めただけで大分頭がスッキリしたお陰か、驚くほどサクサクと作業が進み次の工程へと回せる。
「あっ! その作業、こっちで出来ます!」
作業が上手く進めば調子も出てくるらしい。このまま一気に片付けてしまいたい。そんな欲が出たのだろう。普段ではあまり好まない率先的な行動だが、今日は珍しく挙手をし作業を買って出ることにした。
カタカタカタ。
慌ただしいフロアに飛び交う声。それに負けじと鳴り響く電話の呼び出し音と、キーボードを叩く音。時々マウスをクリックするカチカチッという音が響き、次の瞬間、様々な声がデスクのあちこちから聞こえてくる。
それは喜びを表現するものだったり、落胆を意味するものだったり様々だが、この仕事を終わらせて帰りたいという目標だけは全職員共通で持っている願望だ。
「これで最後です!」
ラストの行程を経て最終チェックに回されたデータを受け取り、テストプログラムを実行させる。これでバグが見つからなければ、上司に回してそのまま待機。問題がなく無事に納品にこぎ着けることでやっとこの忙しさから解放される。ゴールは直ぐそこ。ラストスパートだと気合いを入れ、画面に表示された文字と睨めっこを続けること数十分。
「…………だ、大丈夫だと思います」
ヘロヘロになった声でそう言うと、上げるのも億劫になった腕を持ち上げ出した大きな丸サイン。それを見た上司が、急いでデータを送るように指示を出し、その指示に従い作業を完了させた瞬間、私のやる気スイッチが一気に落ちた。
「…………あぁぁ…………」
張り詰めていた緊張が途切れれば、疲労が一気に押し寄せる。机に突っ伏し大きな溜息を吐くと、お疲れ様と同僚から肩を叩かれた。
「お……おつかれぇ……」
軽く手を振りそれに応えると、同僚がこんなことを呟いたのだった。
「そう言えば、髪の毛、大分伸びたんだね」
「ん?」
ゆっくりと顔を上げ同僚の方へと向き直る。
「いやぁ。そんなに髪の毛が長いのって、入社してから始めて見た気がしてさぁ」
確かに。彼の言う通り私はここ数年、こんなに髪の毛を伸ばしたことが無い。理由は先程述べた通り邪魔で鬱陶しいからで、切るのが当たり前になってしまっていたからこの姿を見るのは珍しいと言われてもそれはそうだろう。
「中々新鮮だね」
「そう?」
「うん」
どうやら彼はロングヘアが好きなのだろうか。可愛いよだなんて歯の浮くセリフを言われ立った鳥肌。
「ちょっ、冗談止めてよ!」
「冗談じゃ無いって」
疲れのピークを越えたからだろう。下らないことが面白くて仕方ない。
「そんなこと言われたら気があるって思って訴えるよ?」
笑いながらそう言えば、それは勘弁と彼が赦しを請うように両手を合わせて眉を下げる。
「にしても、ほんと。腰まで長い髪の毛って大変そうだな」
「…………え?」
「え?」
ちょっと待って。
笑い声を止め、引き攣った表情で固まった私は彼に対してこう問いかけた。
「今、なんて?」
「え? だから、髪の毛。腰まであって大変そうだねって」
「……………………」
恐る恐る手を動かし背中を確認すると、確かに彼の言う通り、髪が腰まで下りてきている。
「…………そんな……馬鹿な…………」
でも、それはあり得ない話なのも私はキチンと理解していた。
「どうしたの?」
「………………」
髪ゴムを見つけて束ねた時、確かに髪の毛は肩を少し過ぎるところまでしか伸びていなかった。それから作業に集中し、今こうやって仕事から解放されたとしても、その間精々四、五時間くらいしか経っていないはず。それなのに、これだけの量が伸びるのは明らかにおかしい。
「…………ごめん。ちょっと、疲れてるみたい」
これは一体どう言うことなのだろう。
「スイマセン。もう、この後の作業って無いですよね?」
背中に感じた薄ら寒さ。上司に一言確認し、帰宅して良いという許しを得た私は、急いで荷物をまとめフロアを出る。
「何なのよ! もうっ!」
この時間から開いている美容室なんて有るのだろうか。そんな不安を抱きつつ、ネットで検索し見つけた美容室に予約を入れ、今から覗うことを伝え電話を切った。
「気持ち悪い」
自分の髪の毛だというのに、この状況が理解出来ない。とにかく早く切ってしまいたくて、気持ちだけが焦ってしまう。
「早くっ……」
丁度青に切り替わった信号。
道の向こう側へと渡るべく、横断歩道の白線を踏むように足を踏み出す。
「あ」
聞こえてきたのはけたたましいクラクション。
次の瞬間、視界が真っ白に染まり、強い衝撃が身体全体に走った。
「…………」
遠くから聞こえてくるのはサイレンの音だろう。
でも、もう、何を考えて良いのかが分からない。
痛い。という感覚に、意識が全て支配される。
段々と感じ始める寒さ。
誰かの声がぼんやりと聞こえてきた。
ああ。なんて、憑いていない日なんだろう……。
髪の毛なんて、早く切ってしまえば良かったなぁ。
そう思ったのを最後に、私の意識はぷつりと途切れたのだった。
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