第112話 鞄
ここに、大きな鞄が一つある。
多分これは、お客さまの物なのだろうと思われる。
私自身は、この鞄を預けたお客さまの事は分からないが、他のスタッフもそうだろうと言っているのだから、その予想は間違ってはいない気がしている。
ただ、正直、この鞄をどうすれば良いのか。そのことについて少し困っていることは間違い無い。
何故なら、この鞄が此処にあると、色んな意味で邪魔だからだ。
この鞄は、いつの間にかここに預けられていた。
管理タグに記載されている日付を見ると、思ったよりは日数は経っていないようではあったが、それでも一週間以上は此処に預けられていることには変わりないようだ。
預け主の名前はたった二文字のアルファベット。連絡先の情報は一切無く、この鞄の所有者が誰であるのかを知るには困難を極める。
普通なら、このような形で荷物を預かることはあり得ないはずなので、どのような状況になったからこんな預かり方をしたのか。そのことが気になって仕方が無い。
当時の担当者にそれとなく聞いてはみたが、担当者は分からないと首を横に振るだけだった。
「それならば、他のスタッフが勝手にお預かり依頼を受けたと、そう言うことですかね?」
そう判断し、その日に業務を行っていた他のスタッフにも確認して回ってみたが、全員がその質問に対して分からないと首を横に振ったことで、ただ謎が深まっただけで終わってしまう。
所有者の分からない大きな鞄。
それが、狭いスペースの一角を占領していることが地味に嫌で仕方が無かった。
なるべく気にしないようにして日々の業務をこなしていく。
それなのに、嫌でも視界に入ってしまうこの鞄は、気にしないようにすればするほど逆に気になってしまい、やがて、見て見ぬ振りが出来ない程、その存在を誇示するようになってしまったのだった。
この鞄を預かってから気が付けば一ヵ月程が経った頃だろうか。
いい加減視界から消えて欲しいと願うのだが、残念なことに、未だ所有者が受け取りに現れる気配がないまま、この鞄はそこに在り続けている。
誰に連絡を取れば良いのか分からないのと、移動させるのが億劫との理由で触れようとしなかった問題ではあるが、このままでは埒が明かないだろう。漸くこの問題と向き合うことを決め、数人のスタッフを呼び鞄の前に立ったのが今日の話だ。
「……本当に、いいんでしょうか?」
お客さまの持ち物を勝手にどうこうするのは気が引ける。そう言いたそうに呟いた部下の言葉は確かに一理ある。
「それが気にならないと言ったら嘘になるが」
大丈夫かと問いかけられたせいで鈍る決心。しかし、ここは動かなければいけない時だ。そんな気がするからこそ、私はこうやって行動することを選んだ。
「いつまでも預かっておく訳にもいかないだろう?」
全ての責任は私が取るからと部下を納得させると、改めて不思議な鞄と向き合い手を掛けた。
「持ち主に連絡する手掛かりがあれば、それで問題は解決するかもしれないじゃないか」
この行為は正当なのだと。自身に言い聞かせるように言葉にしながら、鞄についてもう一度確認していく作業。成人男性の腰ほどの大きさがあるこの鞄は、以前感じたのと同じようにやたらと重く、そして、堅い。材質は皮のような手触りで、程良く使い込まれているヴィンテージ感が高級感を醸し出している。底面には移動が可能なように取り付けられている四つのキャスター。鞄のサイズに対してかなりサイズの小さいそれは、簡単に移動しないようにストッパーが上げられている状態でこの場所に固定されていた。
「鍵がかかってるみたいだな」
荷物なのだからプライバシーがあるのは当然だ。鞄には鍵穴とダイヤル錠がそれぞれ設置され、どちらもロックがかかった状態になっていた。
「倒してみてもいいんですかね?」
目に見え無い場所にも所有者に関するヒントがあるかも知れない。部下の提案に頷くと、二人がかりで鞄を倒し床に寝かせる。
「うーん……」
目に見える部分には何も無い。私以外でも誰かが気が付けばと全員で確認してみたが、手掛かりは何も見つからないまま時間だけが過ぎていく。
「ダメだな。何も情報が見つからない」
得られない答えに不安が積もる。
「…………はぁ……」
この荷物を撤去することは不可能なのだろうか。誰もがそう思い始めた時だった。
「………ん?」
小さな音が鞄から聞こえる。
「なんだ? この、カチカチっていう音は」
何処かで聞き覚えのあるような音に首を傾げながら音の正体を探ると、ダイヤル錠のメモリが勝手に回転している事に気が付いた。
「これっ!?」
それに気付いたのは何も私だけではない。その場に居た全員がその事に気が付き息を呑む。
「……もしかして、……開く……のか……?」
先程までは確かに鍵がかかっていた。それは、全員で確認したのだから間違いはない。そもそも、開くための解錠番号も、鍵穴にささるはずの鍵も無いのだ。この鞄が所有者以外に開けるとは誰一人として考えては居なかったのに、それを嘲笑うかのように鞄は勝手に開こうと音を立てている。
「主任……これ……」
この場から逃げ出したい。誰もがそう思っていたはずだ。
「……分かって居る」
だが、この鞄の中がどうなっているのかを知りたいという好奇心も確かにある。
誰もこの場所から動く事が出来ないまま、今まで謎に包まれていた鞄の鍵が外れてしまった。
「…………」
場に下りる沈黙。誰も動こうとしないのは、この中にあるものを確かめる勇気が持てないからだ。
「どうしましょう……」
誰かが動かなければ先に進まない状況に痺れを切らしたのだろう。部下の一人が震える声でそんなことを呟いた。
「……お客さまには悪いが……中を確認、させてもらうとしようか……」
元々はそれが目的。動くと決めた異常、ここで引き下がる訳にはいかない。覚悟を決めると、私は鞄の前にしゃがみ込み、ゆっくりと閉ざされたそれを開いたのだった。
「……………あ」
真っ黒。
その言葉以外、何も思い付かない程真っ黒な空間。
「なん……ですかね……これ……」
部下の一人が背中越しに鞄の中を覗き込みながらそう尋ねる。
「……さぁ。これが何なのか、私には分からないよ」
鞄の中は、何かが詰まっている。そんなのは勝手な思い込みだったようだ。開けてみると、そこには全てを呑み込んでしまうような真っ黒な闇だけが広がっていた。
「……これ、やばくないですか?」
誰とも無くそんなことを呟き後ずさる。
「早く閉めた方がいいですって」
声が震えている所を見ると、どうやらこの闇に対して感じているのは恐怖らしい。
「……そ、そうだな」
その言葉に同意するように頷くと、私はゆっくりと鞄を閉じるため手を動かした。
はずだった。
「うわぁああああっっっっっっ!!」
突然背後から響く叫び声。次の瞬間、鞄の中から伸びた二本の長い腕が、部下の身体を掴み闇の中へと引き摺り込んだのだ。
「たっ、たすけてっ!?」
彼を助けるために急いで手を伸ばすが、その腕を掴むことが出来ず、彼は口を開いた闇の中へと姿を消してしまう。
「…………」
いつの間にか閉ざされてしまった鞄。慌てて開こうと手を動かすのに、何人がかりで鞄を引っ張っても、鍵がかかっているようでびくともしない。
「……そんな……ばかな……」
ここに、一つの鞄がある。
持ち主は誰か分からない。
多分、お客さまのものだとは思うのだが、受取人が現れる気配は未だない。
たった一つだけ分かる事は、先程まで居た部下の姿が消えてしまったと言う事。
鞄に呑み込まれてしまった彼は、一体何処に行ってしまったのだろうか。
残念ながら、今の私たちには何一つ、それを確かめる術は無かった。
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