第111話 殺虫剤

 暖かくなってきたせいか、最近は虫が多くなってきた気がする。

 どうにもこの時期がとても苦手で、正直に言えば本当に辛い。

 だから常に用意されているのは、苦手な虫を駆除するための殺虫剤だった。

 とはいえ、殺虫剤と一言で言っても、その効果は商品によって異なる。メーカーによっても殺傷力に差があるように感じ、未だにこれがベストだという商品を見つけることが出来て居ない。

 いっそのこと、一本でどんな虫にでも効くようなモノが有ればいいのにと毎回思うのだが、残念ながら未だそういった商品が店頭で販売されることはなさそうである。

 そんなわけで今日もまた、突然現れる虫の恐怖に怯えつつ、殺虫剤をスタンバイ。油断したときに現れる奴らが本当に難くて仕方が無かった。

「お姉ちゃん、そこ!!」

 テレビを見て居る時に突然上がった妹の声。油断しているわけではなかったのに、やはりそれが出たという事実があると言うだけで、身体が震え上がってしまう。

「やだっ!! どこ!?」

 涙目で必死に殺虫剤を抱きかかえて敵の位置を探る。全神経を尖らせて、直ぐに攻撃態勢に移行できるように武器を構えて。

「お姉ちゃん! あっち!!」

 妹はと言うと、クッションを抱きかかえて一人安全地帯へ避難。私以上に虫が苦手な彼女では、怯えきってまともに戦えないのだから仕方が無い。

「もう無理! 早く!!」

 とはいえ、私だって虫は大の苦手なのだ。急かされる対応に、文句の一つも言ってやりたくなるがそこは我慢。妹の指を差す方へ殺虫剤を向けると、薄目を開けながら対象へと向けて思いっきりノズルをプッシュした。

 スプレー缶から吹き出る薬剤が、独特の音を立てて勢いよく噴射される。ジェットタイプのものだから、薬剤の散布範囲は思ったより広め。まだ成長しきっていない気のする黒い物体に直撃すると、それはジタバタと藻掻き床の上にひっくり返る。

「いやぁぁっっ!! もう! ホントやだ!!」

 何もできない妹は、ソファの上で小さくなったまま悲鳴を上げ続けている。

「お姉ちゃん! 早く! 早く片付けて!!」

 言われなくても分かってはいるのだが、それがそこに在るという事を自覚してしまっているせいで、上手く身体が動かないのだ。

「分かってるわよ!!」

 それでも何とか自分を叱咤し、ティッシュを数枚ボックスから抜き取ると、見え無いようにそれに被せてビニール袋を探す。とにかく早く、その素材を目の前から消してしまいたい。その一身で私は必死になって動いた。

「……もう、居ない?」

 ティッシュに包まれた黒い物体をビニール袋の中に閉じ込めたところで妹が口を開く。

「この中に入れたから、多分大丈夫……」

 手に持っている小さな袋を見せれば、彼女は見たくないとそっぽを向いて早く捨てて欲しいと指示を出した。

「……全く」

 本当に身勝手なんだから。思わず出そうになった悪態を呑み込むと、私は小さく溜息を吐きごみ箱の前へと移動する。用事があるのは蓋付きの方。フッドペダルで蓋を開封し、持って居たビニール袋を放り込めばミッション終了だ。

「あーあ。せっかく面白い所だったのに」

 部屋にもどってみれば、既にテレビは次の番組へ。見ていたドラマのハイライトシーンは、とっくに終わってしまっていた。

「一応録画してるんだから、後で見るしかないよ」

 ニュース番組に切り替わったテレビを見続けるかどうかを悩みながら、使い終わった殺虫剤を手に取り片付ける。

「ねぇ。そう言えばさぁ」

 ソファの上の妹が、ローテーブルの上に放置されているリモコンへと手を伸ばしながら言葉を続けた。

「その殺虫剤、いつから家にあるんだっけ?」

「え?」

 突然言われた質問に、意味が分からず固まってしまった。

「そんなの分かんないよ。買って来たの私じゃないし」

「ふぅん」

 中途半端に途切れる会話。どうやら興味をなくしたらしく、妹はザッピングしながら次に観る番組を探して居る。

「テレビ、見終わったら消してよね」

 これ以上会話がないだろうと判断した私は、殺虫剤を片付け部屋に戻ることにした。

「おやすみ」

「うん」

 この時の会話はコレでお終い。特別な事なんて何も無かった、はずだった。


「ねぇ、おねえちゃん」

 ゆらゆらと身体を揺すぶられる感覚に、意識が緩やかに現実へと引き戻される。

「……ぅ……んっ……」

 重たい瞼を無理に開くと、ぼんやりとした人間のシルエットが現れた。

「……なに……?」

「うん」

 欠伸をしながら問いかければ、抑揚のない声で妹が答える。

「虫が出たの」

「…………」

 虫が出た。

 その言葉に一気に覚醒した意識。

 慌てて飛び起きると、急いで周りを見渡し何処に居るのかを探る。

「どこ!?」

 目の前には無表情で私を見つめる妹の姿。

「お姉ちゃんの目の前」

「なっ……」

 目の前。そう言われても、私の目の前には妹しか居ない。虫なんて何処にも居ないし見つからないから、からかわれたのかと思い、段々腹が立って来た。

「……あんたねぇ……」

 冗談を言うなら状況を考えて!

 そう彼女を叱り、もう一度眠るべくベッドに潜り込もうとしたときだ。

「殺虫剤。かけなくていいの?」

 目の前に迫る妹の顔に、思わず顔が引き攣ってしまう。

「虫、居るんだよ?」

 そう言って、妹が差し出したのは、片付けたはずの殺虫剤だ。

「虫、居るんだって言ってるじゃん」

 ノズルが私の方を向いているのは気のせいだろうか。殺虫剤の向こう側に見える妹の顔は、普段見慣れているものではなく、どこかしら生気がなく不気味に映った。

「ちょっ……冗談、よして……」

「冗談なんかじゃないよ」

 次の瞬間、殺虫剤から大量の薬剤が私目掛けて吹き出される。

「ちょっ! やめてっ!!」

 慌てて顔を庇ったが、噴射される薬剤が僅かに目や口の中に入ってしまった。嫌な味と大量の涙で気持ちが悪くて仕方が無い。

「虫が出たら殺すんでしょう?」

 目の前の妹はまだ殺虫剤をかけながらそんなことを呟いていた。

「だって、深い害虫なんだもん。消えてくれた方がいいんだよね?」

「やめてっっ!!」

 勢いよく払いのけた手。妹の手から離れたスプレー缶が鈍い音を立てて床の上に転がる。

「何考えてんの!? 頭大丈夫!?」

 顔にかかった薬剤を服で拭いながら妹を睨み付けた時だった。

「イッポウテキニコロシタノハ、オネエチャンノホウダヨ?」


 私は、一体、何を見ているのだろうか?


「テイコウスルマモナク、コンナモノヲツカッテ、ムシヲコロシタノハオネエチャンジャナイ」


 妹だと思っていたモノの頭には二本の触覚。目には生気がなく、所々人間とは異なるパーツが存在している奇妙な物体。


「キニイラナカッタラコロス。ソレガニンゲン、ナンダヨネ?」


 目の前のそれは、ゆっくりとベッドを降りると、床の上に転がったスプレー缶を手に取り私に向ける。


「ワタシ、オネエチャンノコト、キライ。ダカラ、キエテヨ」


 ゆっくりと下に降りる噴射口。再び吹き出される大量の薬剤は、容赦無く私の身体に降りかかり息苦しさを連れてきた。


 私は虫が苦手だ。

 だから、視界から消えて欲しかった。

 でも、それは一方的な私の考え。


「ワタシハタダ、イキテイタダケナノニ」


 薄れ行く意識の中、驚くほど不気味な声が耳元で響く。


「死んだらちゃんと、ごみ箱に捨ててあげるね」


 最後の一言だけは、とても嬉しそうに、私の脳裏に響いたのだった。

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