第107話 箸

 どうせならば、いっその事、雨が降っていれば良かったのに。

 そんなことを願っても、無駄に気持ちの良い青空と、真っ白に輝く太陽が清々しい空気を運んでくる。

 そんな状況に似つかわしくないこの場所と空気は、自分が思っている以上に憂鬱で重たかった。

 出棺を待つ霊柩車が目の前に停まっている。

 それは、ネットで検索したときに見たような豪華なものでは無く、どう見ても普通に見える高級車。こんな機会が無ければ乗る事も無いと感じてしまうその車体を、僕はただぼんやりと眺めている。家の中では、両親と叔父や叔母が忙しくしていた。

 お葬式に出ることは滅多に無いため、僕は退屈を持て余している状態。

 暇だからゲームをしたいと思っても、「それは駄目よ」と叱られてしまったため、邪魔にならないように家の外で時間を潰している。

 参列のために訪れる訪問者は、僕の姿を見て軽く会釈し通り過ぎていく人が殆ど。中には話しかけてくるおばさんとかも居たけれど、正直誰なのか分からないからちょっと困る。話の内容も僕には分からないから、適当に笑ってその場をやり過ごした。

 季節はそろそろ夏に差し掛かると言うところ。遠くから蝉の声が聞こえてくる。頬を流れ落ちる汗が、シャツに吸われじっとりと蒸れるのが気持ち悪い。風に揺れる鯨幕がずっと続いているように見え、どこまでが現実なのかの境が分からず気味が悪かった。

 いつまでこんなことをするんだろう。

 子供の僕にはその儀式の重要性が分からない。普段しない長時間の正座も苦手だし、お盆の時以外では嗅ぐことの無い線香の匂いも余り好きでは無い。坊さんの読み上げるお経は何を言っているのか分からず退屈だし、欠伸をしようと口を開き掛けたら隣に座った姉から「やめなさい」と怒られてしまう。

 祭壇の下で横たわるのは大好きな祖父だったし、その祖父がもう居ないんだと思うと悲しいとは感じたが、それとこれとは話が別。とにかく早く足を崩して楽になりたい。そればかりが頭を過ぎってしまう。

 やっとの思いで足を崩した頃には、疲れがかなり溜まっていた。

 足の痺れに即座に動く事が出来ず座布団の上で唸り声を上げていると、父親に手伝えと腕を引っ張られた。

 男手が必要だからと言われても、そんなに体力があるわけでは無い。

 命の抜けた小さな祖父の抜け殻が入った棺は、思ったよりも重く、不思議と涙が込み上げてくる。

 ああ。もう、おじいちゃんは居ないんだ。

 そう思うと、やっとそれが普通では無いと言うことに実感が追いついたのかも知れない。

 でも、まだ、泣くわけにはいかなかった。


 火葬場に着いた時には、もう太陽の位置が少しずつ夜に向かって傾き始めていた。

 それでも、まだまだ日は高いし、空はムカつくほど青い。蝉の声も鳴り止むどころか余計に騒がしく、より強い蒸し暑さを感じさせる。

 火葬の準備が整うまで案内された控え室。そこで出された弁当は完全に冷え味もよくわからない。それでも、体は空腹を訴えていたのだから、食べ物が入る事を素直に喜んでいるようではあった。

 冷たい麦茶で喉を潤し、用意された和菓子を適当に摘まんでいると職員が参列者を呼びに来る。

 もっと陰鬱な雰囲気をしているのかと思っていた火葬場は、とても明るく、そして綺麗だった。

 何度目なのかもう分からなくなってしまったお経を聞きながら俯く。

 幾ら室内が白く明るいからと言って、この陰鬱な雰囲気が完全に消えて無くなる訳では無い。

 人が一人、この世から居なくなってしまった。

 その事実は、この棺が目の前から消えていこうとしている事を見て改めて思い知らされる。

「それでは。これから火葬へと移らせて頂きます」

 口を開いた焼却炉。ゆっくりと棺がその中に呑み込まれていくのを見て吐き気が込み上げてきた。

「点火スイッチは、先程も説明致しました通り、喪主の方に押して頂く事になっておりますが……」

 そう言って職員は祖母の方へと視線を向けた。

「すいません。私でも宜しいでしょうか?」

 それを見た父がすかさず、祖母と職員との間に割ってはいる。

「ええ。構いませんよ」

 伴侶を失った高齢の祖母を気遣ったのだろう。母が悲しみで涙を流す祖母の背中を優しく撫でながら慰めていた。

「それでは、お願い致します」

 真っ赤で丸い大きなボタン。それをたった一度押し込んでしまえば、祖父という身体がこの世から完全に消えて無くなってしまう。低く大きな音を立てて稼働する焼却炉の向こう側で、祖父だったモノが高温で焼かれているのを想像して感じる怖気。長く伸びた煙突からは、煙に形を変えた祖父がゆっくりと空へ向かって昇っていくに違いない。

「では。続きまして、骨上げに移らせて頂きます」

 焼却炉の中から取り出されたトレイには、随分と小さくなってしまった祖父の欠片が散らばっている。目の前には骨を収めるための壺が一つ。そして、長さの異なる竹と木の箸がそれぞれ用意されていく。

「骨上げは故人と縁の深かった方から行います。まずは喪主である奥様と息子さん。どうぞよろしくお願い致します」

 その言葉に頷くと、祖母と父が並ぶように立ち二つの箸で骨を拾い上げる。

「骨を収める順番は、頭の先から爪先まで。順番に収められるという流れになります。此方側の大きなお骨から順番に、骨壺に納骨をお願い致します」

 そうやって、順番に二人一組で祖父だった欠片を拾い集め壺の中へと収めていく。火葬に立ち会った親族の間で一通り作業が回ったところで、職員がこう言葉を続けた。

「残ったお骨は、私共の方で骨壺へと移動させて頂きますね」

 専用の刷毛で灰と共に集められる欠片たち。

「あっ」

 一箇所にまとまったそれらを壺の中へ収めようとした瞬間、祖母が小さく声を上げた。

「お義母さん?」

「その小さなお骨はどこの骨ですかね?」

 突然の質問に、職員の男性が驚いた表情を見せる。

「ええ……と……そうですねぇ………小指……で、しょうか?」

 小さな山を形作った灰の中で最も大きな白い塊。それを見てそう答えると、祖母がすかさずこう言葉を続けた。

「もう一度、その骨だけ骨上げをさせてもらってもいいですかね?」

 普段ならこういう申し入れは無いのだろう。職員の男性が困った様に笑いながらどうするべきかを悩んでいた。

「分かりました。それでは、こちらを」

 ただ、それを断る理由が見つからなかったのだろう。先程片付けたばかりの箸を二本差し出すと、どうぞと場所を譲ってくれる。

「母さん、僕も……」

「いいや。私一人で十分じゃて」

 二人一組の骨上げなのに、その申し出を断ると、祖母はさっさと小指の骨を箸でつまみ上げてしまう。

「母さん?」

 箸に摘まれた白い欠片は、そのまま壺の中に入るものだと。その場に居た誰もがそう思ったに違いない。

「母さん!?」

 だが、起こったのは全く予想外の出来事。その場に居る全員が慌てて祖母に向かって手を伸ばす。

「あはははははっっ!!」

 狂ったように笑い声を上げる祖母を見て、僕はどうして良いのか分からず、その場で固まることしかできない。

「やぁっと、戻ってきたんだねぇ」

 祖父の小指を呑み込んだ祖母が、不気味な笑みを浮かべて嬉しそうに呟く。

「これでアンタは、ずっと私だけのもんだからね」

 次の瞬間、室内だというのに大きな風が吹き祖父の欠片を巻き上げた。顔中にかかる灰と煤。それから逃れるようにその場に居た全員が服や腕で己の身を庇う。

「…………」

 風が収まりゆっくりと瞼を開くと、そこに居たはずの祖母の姿が無い。

「かあ……さん……?」

 父の動揺した声が響く。

「ね……ねぇ……あなた……」

 震える声で母が口を開き、こう呟いた。

「お義母さんって……確か、お義父さんよりも先に、亡くなってなかった……っけ……?」


 何故、忘れてしまっていたのだろう。

 母の言葉を聞いてその場に居た全員がその事を思い出し青ざめる。

「……じゃあ……あれは、一体……」


 結局のところ、祖父の小指を奪っていったものが何だったのか、未だに誰も分からない。

 ただ、一つだけ言える事は、骨壺の中に有る祖父の骨は、小指だけが足りないまま。

 祖父は今、墓石の下で静かに眠りに就いている。数年前に先立ってしまった、本当の祖母隣で、静かに寄り添うようにして。

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