第106話 実家
実家を出て一人暮らしをし始めてから随分と時が経った。
日々忙しい生活の中、少しずつ帰省の回数も減り、田舎から離れた地で結婚をし家庭を設ける。
慣れない生活に泣きたくなるときもあったが、簡単に帰れるような距離でも無いため我慢するしか無く、辛うじて繋がる脆弱な関係は、偶にこちらから掛ける電話のみ。
その度に母親は喜び、決まってこう言うのだ。
「偶には帰ってきなさい」と。
その言葉に良心が痛まない訳ではない。だが、毎回理由を付けて断り続けて十数年。
本当はもっと早くに郷里の土を踏みたかった。そう思うようになったのも、私が随分と歳を取ってしまったからなのだろう。
見知らぬ土地で頼る者は伴侶以外居ない状態。慣れない子育てに義両親との関係性。弱音なんて沢山吐きたかったし、今でもまだ納得が出来ていないことも多々ある。
それでも、私は帰れなかった。
暖かく私を受け入れてくれると分かっている実家の門を開くことが、今の今まで出来なかったのだ。
そんな実家への帰省だが、今回それを決めたのには理由があった。
数日前に届いた訃報。それは、大好きな母親が死去したという報告である。
父親は私が嫁ぐ前に既に亡くなっていたため、母は一人でこの場所に居た。夫に相談し近くに越して貰えないかを頼み込んだ事は在るが、「それは、お父さんに申し訳無いから」と丁寧に断られ、最後の時までこの家で暮らし続けたのだという。
母親が亡くなっていることを知らせてくれたのは近所に住む親戚で、普段から仲の良い叔母が、母の様子を見に訪ねたときに異変に気が付いたのだと聞いた。
母親は、仏間で一人、静かに息を引き取っていたのだという。
一組だけの布団の上で、眠るように冷たくなっていた彼女を見て、叔母は一瞬頭が混乱したそうだ。慌てて家に引き返し、夫と共に母の元に戻ると、警察や消防に電話を掛け駆けつけた隊員により死亡確認をして貰ったようだった。
しん。と静まりかえった家は、幼い頃、感じていた以上に小さくて狭い。
ただ、そんな家でも、独りぼっちで暮らし続けていれば、とても広く感じてしまっていたのかも知れない。
気が付けば至る所に見たことの無い物が増えている。
母親が息を引き取った仏間だけはとても綺麗に片付いているのに、それ以外の部屋には何に使うのか分からない我楽多が、所々に点在し、居座っていた。
葬式の手前、放心しながらもなんとか家の中を人が呼べる範囲まで片付ける。
家中に置かれた我楽多たちは、仏間から一番遠い客間に全て追いやられ、隠されるように障子と襖を閉められた。
人が死ぬことなんて、一生のうち何度経験するのだろう。
ゆらりと揺れる線香の煙が、家中にその香りを広げていく。
気を抜いたら涙が溢れてきそうで、必死に悲しみを堪え鼻を啜る。
焼香客が思った以上に訪ねてくれたのは不幸中の幸いで、久し振りにあう人との会話に、少しだけ気が紛れる。
それでも…………みんなが帰ってしまえば矢張り、この家は静まりかえり寂しくなってしまった。
「……お家……どうしよう……」
こんな時に離す無いようでは無い気もしたが、何かを話していないと気持ちが落ち着かない。相続する人間が私一人しか居ない田舎の家は、正直、荷物でしか無いと感じてしまう。
「リタイアしたときに家族でこっちに引っ越してこようか?」
そう夫は言ってくれたが、私はそれに乗り気には慣れなかった。
「大丈夫?」
優しく大きな彼の手が、私の背中をゆっくりと撫でる。
「大丈夫…………じゃ……ないっ……」
大丈夫。そう言いたかった。でも、口から吐き出された言葉は全く真逆のものだ。
「何でかなぁ…………」
誰も居なくなったという事実を認識したと同時に大粒の涙が溢れてくる。
「何で、もっと早く、帰ってあげられなかったんだろうっ…………」
後悔は、何時だって過ぎてしまった後にしか気付けない。
「お母さん、ずっと言ってたのに…………」
いつだって帰ってきて良いからね。その優しさに甘え、いつでも会えるのだと高を括っていた。移動することが出来る距離なのだから、いつかは必ず元気な姿を見せることが出来るはず、と。
しかし、別れはいつだって突然に訪れる。
それは誰にも予想出来ないタイミングで起こる事も多い。
目の前には一つの箱。中にはもう、二度と、私に対して微笑んでくれない最愛の母が横たわっている。
綺麗にエンバーミングを施され、真っ白な死装束を身に纏い、沢山の花に囲まれて最後の時を待つ抜け殻。
こんなにも小さくなってしまった大きな存在は、私の声に応えてくれることはない。
「ごめんね…………お母さんっ…………」
生きている間に一言でも、伝えてあげれば良かった。
「大好きだったんだよ…………」
棺の縁に手を掛けて、もう聞こえていないだろう抜け殻に対して必死に訴える素直な気持ち。
「私、あなたの娘で良かった」
開いた窓の向こうからは、生暖かい風が吹き込んでくる。
ちりん。
小さな音を立てて鳴る風鈴。
それはまるで、別れを告げに来たかのように涼やかで悲しい音色だった。
「ごめんね、お母さん」
そう言って、ハンカチで涙を拭った時だ。
『あんたも、一生、家に縛られれば良いんだ』
反射的に後ろを振り返っても何も無い。驚いた顔で私を心配する夫がそこに居るだけ。
「大丈夫……か?」
気のせい。
多分、今聞いた声は、きっと気のせいなんだ。そう自分に言い聞かせながら私はそっと棺から離れる。
恨みがましい一言が、耳の奥にこびりついて離れない。
今日はどうやら、眠れそうにない。
縋るように夫の腕を掴むと、そのまま仏間を後にしたのだった。
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