第103話 投げキッス

 何となく視線を向けた先。

 その人が私の事をじっと見ていた事に気が付いた。

 始めは気のせいかなと思ったけれど、どうやらそんなことは無さそうな感じ?

 周りを見ても誰も居ないし、目が合ったらニッコリと微笑まれちゃったし。

 オマケに意味深な投げキッス。

 余りにも突然の事に、動揺して顔が真っ赤になってしまった。

 正直、こんな事は初めての経験だし、こんな事あるなんて予想すらしていなかったのだから、ビックリして変な声が出ちゃうのも当たり前だろう。

 それでも、私はそれを恥ずかしいと感じつつ、嫌だとは思わなかった。

 寧ろ、嬉しいとも感じている。

 こんな私にアプローチをしてくれる男性が居るという事実。それがとても有り難いと感じてしまったのだから。


 そんな感じで出来た縁は更に不思議な奇跡を生むようで、何回か挨拶を交わす内に親しくなり、相手から告白されたことで正式にお付き合いをすることになった。

 私にとっては初めての恋人。

 彼は軽い印象に見られてしまうけれど、本当はとても紳士的で、私の事を大事にしてくれる素敵な男性。常に私の事を優先し、私の駄目な所も許容してくれるくらい懐が深く温かい。

 人に甘える事が苦手だった私にとって、彼という存在が大きくなるまで、さほど時間はかからなかった。

 甲斐甲斐しく私の世話を焼いてくれる彼は、見た目が整っているのと性格が良いお陰で、人付き合いが良く顔も広い。ひっきりなしに入る連絡は男性、女性問わずで、常に人気者だった。それでも、そんな友人や知人達の誘いを断ってまで、常に私を最優先に考えてくれるのだから、私はそれがとても嬉しかった。

 優越感。とでも言えば良いのだろうか。

 ただ、それと同時に感じるのは劣等感と不安。私みたいな地味な人間のどこが良いのかが分からず、常にそれが付きまとい頭を過ぎってしまう。

 それでも私は信じていた。

 彼の唯一大切にしている存在が、私であるということを。

 だからこそ、彼が他の人と約束することも許したし、彼の行動を制限することもしなかった。出来なかった。

 

 それでも、そんな物はいつしかバランスを崩して傾いてしまう。

 疑心暗鬼。

 それに囚われた私は、いつからか、彼の存在を心から信じる事が難しくなってしまっていたのだ。


 彼の優しさ自体が大きく変化したわけではないことは分かって居たが、私に向けられる愛情が圧倒的に不足していると言うように感じ始めたのはいつの頃からだろうか。

 彼が私を置いて他の事を優先することが、何よりも気に入らない。

 彼に言われる「ごめん」という言葉に苛立ちを感じてしまう。

 私がこんなにも彼のことを好きで好きでたまらないのに、彼は以前のように私に微笑み投げキッスをしてアプローチしてくれることが少なくなってしまった。

 マンネリ化しているのだと思った瞬間、私は心の何処かで彼を恨むようになってしまったのだろう。

 強すぎる独占欲が私を少しずつ喰らい始める。

 それは、自覚していても止められるようなものではなく、何かある度に膨れあがる憎悪のように、少しずつ育まれていく負の感情。


 私だけのものにしたい。


 そんな考えがずっと頭にこびりついて離れなくなってしまったのだ。

 それでも、彼は変わることなく私と共に在り続けてくれる。それは彼なりの優しさだったのか、それとも私をからかったことに対しての後ろめたさだったのか。真意の程は分からない。

 ただ、彼が私から離れる気配が無いことだけは、不幸中の幸いではあった。

 だからこそ、私は彼を閉じ込めたいと願ってしまったのだろう。

 そんな技術も度胸もない癖に、私は彼を束縛したくて仕方無かった。

 仕方が無いと笑いが零れる。だって、もともと私は地味で不細工で、誰にも相手にされないような平凡な存在だったのだ。

 そんな私が彼という特別な存在を得てしまったのだから、彼の存在に縋り付き、一人になりたくないと必死に藻掻くのも当たり前なのかもしれない。

 大きな見栄が自分を苦しめる。手放してしまえば楽になる事は分かって居ても、それを失う事が怖いのだから、もうどうしようもない。


 そして、ついに。

 私は一つ。罪を犯した。


 目の前には真っ赤に染まる彼の身体。

 恐怖で言葉が話せないのだろう。信じられないと言いたげに彼が怯えたような目で私を見つめる。

 私はと言うと、涙で顔がぐちゃぐちゃで。元々不細工だったものが、更に不細工になってどうしようもない。


「ごめんね」


 そう言って切り落としたのは彼の両足。

 私から離れていってしまうことが無いように、彼の自由を奪ってしまう。

 そうしたら、永遠に私と彼は一緒に居られるのだ。私の願う幸せは、酷く歪んでしまってはいるが些細な物。

 それだけが在れば十分だと。

 両足を失った彼に寄り添うように私は彼の胸に身体を預け、うっとりと瞼を伏せる。


『……本当に、それが現実だとでも思ったのか?』


 ふと、そんな声が聞こえ驚いて顔を上げた。



 目の前には真っ黒な闇。

 何も見え無い、何も掴めない。

 まるで、悪い夢に囚われたかのような感覚に、嫌な汗が頬を伝う。

「何……これ……」

 先程まで確かにあった温もりがどこにもない。両手を彷徨わせ彼の存在を探すのだが、指先がそれに触れることは一切無かった。


「…………」


 悪夢から覚めたあと、薄汚れた天井をぼんやりと見て考える。

 あの時の幸せとは一体何だったのだろう……と。

 答えは単純でとても簡単。


 始めから、『彼』と呼べる男性は存在していなかったのだ。


 そう。全ては私が作り出した幻。

 独りぼっちで、誰にも相手にされず。世界の片隅でひっそりと暮らしている存在感のない私。

 誰かに気付いて欲しくて、でも、誰にも声を掛けられなくて。

 だからこそ、心のよりどころとして生み出したのが、『彼』。


 目を覚ませば現実が始まる。

 私に取って、悪夢でしかない現実が。

 願わくば……もう一度、甘美な夢を見られますように。

 そう願って、私は再び瞼を閉じたのだった。

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